西野流呼吸法体験記

●西野流呼吸法を受講してみた

気功太極拳の講座が終わってしばらく後のこと。
もう少し「気」について知りたくなった筆者は、当時人気だった「西野流呼吸法」に入門することにした。
西野流呼吸法については本も多数出ているし、耳にされた方も多いだろう。
創設者の西野皓三氏は医学生時代に思い立ってバレエの道に入り、ダンサー、プロデューサーとして活躍。同時に合気道を修行し、その師範を経て独自の呼吸法を創設した。
筆者は短期間ながら弟子となったわけなので、以下では西野先生と呼ばせていただく。

西野流の稽古場はその頃は青山にあった。
内容としては指導員の指示の下に全員で行う呼吸法と、指導員と一対一で行う「対気」が中心である。
呼吸法は単に息を吸って吐くだけではなく、様々な動作やイメージングと組み合わせて行う。基本は「足芯呼吸」で、足の裏から息を吸い込むイメージで呼吸する。
動作に関しては、体の中心軸を意識しながら旋回したりねじったりする動きが多いようだ。具体的な動作や意識の置き方は違っても、気功と共通するものがあると感じた。

一方で「対気」は西野流独特のものだった。
指導員と生徒が腕と腕を接し、その状態を保って互いに腕を押したり引いたりする。
最後に指導員がちょっと強く押すと、押された方は後ろに下がる。
初心のうちは単にそれだけだ。
だが教わる側の稽古が進んで気への感度が高まってくると、ちょっと後ろに下がるどころではなく、ビルのフロアの端から端まで勢いよく吹っ飛んでゆくようになる。

対気の稽古は慣れていない人の目には異様な光景である。
多くの人が「わあっ」とか「おおっ」などと絶叫しながら、バタバタと後ろ向きに走ったり、大きく後ろに跳ね跳んで壁にぶつかったり、その場でくるくる回り出したりする。
気味悪さに引いてしまい、それが原因で呼吸法の稽古を止めてしまう人も少なくない。
筆者も最初に見たときは「この人たち、おかしいんじゃないか」と思い、相当に引いた記憶がある。
ただまあ異様とか奇妙という意味では、催眠術や気功も似たようなものだろう。とりあえず体験してみなければ何もわからないと思い、続けてみることにした。
そして何週間か続けるうち、自分も他の人たちと同じように、声を上げながら反対側の壁まで吹っ飛んでゆくようになった。

対気で飛ばされていくとき、飛ばされる側は何か見えない強力なパワーで体ごと吹き飛ばされたように感じている。
「無理にこらえようとせず、自然な体の動きに任せるように」
と指導されるのだが、感覚的には明らかに自分で動いたわけではなく、強引に跳ね飛ばされたという印象である。
飛ばされるときのパワーは指導員によって差がある。
受講者の数が多いときには、一般受講者の中からも何人か指導員側に立って対気を行うのだが、初めて指導員役をやった人などは見るからに自信がなさそうで、パワーも弱く、こちらもあまり飛ばない。
しかし同じ人が何度か指導員側に立ってやっているうちに、次第に気のパワーが上がってくるらしく、本人も自信に満ちた顔つきに変わり、こちらの飛ばされ方も大きくなってくる。

●腕の力ではなく気の力

入門者は最初は初心者クラスで呼吸法と対気を練習し、ある程度上達した時点で一般クラスに移る。
まだ初心者クラスにいた頃、Sさんという指導員が対気のやり方を直してくれたことがあった。
腕に力を込めて押していた筆者に対し、S指導員は、
「腕の力で押すんじゃなくて、気で押すんです」
とアドバイスし、口で言ってもわからないと考えたのか、
「試しに全力でぼくを押してみてください」
と両腕を下げて胸を出した。
筆者は言われた通り全力でS指導員の胸を押したが、びくともしない。
踏ん張りもせず自然体に立っているだけなのだが、いくらがんばって押そうとしても力を吸収されてしまうような、不思議な感じがあった。
「これは筋肉の力を使っているんじゃないんです。次は力で踏ん張ってみますから、もう一度やってみてください」
S指導員は再度同じ姿勢で立った。
その胸を筆者が両腕で押すと、今度はすぐバランスを崩し、後ろによろめいた。
「わかりましたか?」
S指導員はにっこりした。

S指導員が筆者に見せてくれたのは、中国武術や古流柔術の本でよく紹介されているような、「気の力」による相手の制圧だったのだと思う。
こうした技で有名な武人に、明治大正期の大東流合気柔術の達人、武田惣角がいる。先年亡くなられた時代小説作家の津本陽氏の作品で広く知られるようになった人物だ。
惣角は身長150センチに満たない小柄な体格だったが、相撲や柔道をやっている力自慢たちに、
「わしを持ちあげてみよ」
と言って床に寝転がると、60キロの米俵を片手で担ぎ上げるような力持ちたちが、小柄な老人をぴくりとも動かせない。
道場で男たちに自分を胴上げさせ、
「今から体を重くする」
というと、何人もの屈強な男たちが協力しているのに、惣角の体を支えきれずに全員が床に押し潰されてしまった。
惣角を描いたノンフィクション作品『鬼の冠(津本陽/実業之日本社文庫)』にそんな逸話が紹介されている。

S指導員がやってみせてくれたのも、おそらくそういう系譜に属する技だったのだろう。
西野先生だけでなく指導員の人たちもそんな不思議な技が使えるのだと知って、筆者は感激してしまった。
もっともS指導員は大学ラグビー部出身の偉丈夫なので、本気で踏ん張られたら、筆者程度の力ではどちらにしても押し崩すのは無理だっただろう。

●圧倒的なパワー

一般クラスに移ると、創設者の西野先生が毎日顔を出して、受講者全員と一度ずつ対気を行っておられた。
初めて西野先生と対気したときのことは、今でもよく覚えている。
まるで自分が野球のボールになり、鋼鉄のピッチングマシンにつかまれて、ものすごい勢いで壁に向かって投げつけられているような、圧倒的な力感があった。
どうも西野先生は、武道をやっていたと思しき受講生は強めに飛ばしていたようだ。筆者が通っていた頃、極真会系のフルコンタクト空手道場の師範代という身長190cmぐらいありそうな空手家が受講生にいたのだが、この人なども西野先生に散々飛ばされていたものである。

一般クラスにいたとき女優の由美かおるさんが稽古場に顔を出し、指導員の一人として一般受講生と対気を行ったことがあった。
由美さんは西野先生のプロデューサー時代の愛弟子であり、西野流呼吸法の最初期からの弟子でもある。
著名な女優さんなので特別扱いで指導員側にいるのかと思っていたら、全然そんなことはないようで、対気していただいたら、他の指導員の人たちと少しも遜色のないパワーで吹き飛ばされてしまった。

呼吸法を習っていた最後の1ヶ月は、自分のレベルを上げようと毎日稽古に出ていた。
その頃、正月明けだったと思うが、西野先生が妙にハイだったことがある。筆者はそのときのクラスで西野先生に対気で吹っ飛ばされた後、家に戻って足腰が立たなくなってしまった。
家に帰り着くなり倒れるように寝込んで、翌日の稽古まで一歩も動けず、そのまま横になっていたのだ。
なぜそんなふうになったのかはわからない。
西野流の本を読むと指導員の人たちも似たような経験をしていて、救急車で運ばれた人もいるようだ。
「気が入った」
ということらしい。
西野先生が本気になると、全員にそういうことが起きるのかもしれない。
幸いこのときは救急車のお世話にまではならずに済み、翌日からは普通の生活に戻ることができた。

●素人には通じない?

以前の気合術についての記事でも紹介したように、傍目には神技に見えるこうした技も、いつでも誰にでも使えるというわけではないようだ。
西野先生が一度、全くの初心者らしき男性に対気を指導されていたことがある。たぶんマスコミ関係の取材だったのだろう。
気のことなど何も知らない様子のその取材者は、西野先生と対気して押されても一、二歩下がるだけで、吹っ飛んだりすることはなかった。
何も修行しておらず、気に対する感度の鈍い人の場合、たとえ大先生が気を放ったとしても、押されて下がるぐらいの反応しかしないのだ。
気合術の松本道別氏の、
「素人ほど扱いにくい」
という話とも符合する、おもしろい現象である。

「気の力で吹き飛ぶ」
ということ自体は、実はそれほど珍しいものではない。
合気道やそのベースとなった大東流合気柔術のビデオには、師範が軽く振り払っただけで弟子たちが吹っ飛んでいくシーンがある。
ヨーロッパ在住の空手家、時津賢児氏の『国際文化としてのカラテ』という著書の中に、フランス人の合気道の先生のエピソードが出てくる。
フランスに合気道の道場を持ち弟子をとっているのだが、この先生が弟子たちに向かって気合いを込めて手を振ると、みな体が触れてもいないのに、
「うわあ」
と声を上げて吹っ飛んでしまうのだという。
ところが弟子ではない時津氏が立ち会うと、いくら先生が手を振っても何も起こらず、逆に時津氏が軽くローキックを入れただけで、
「痛い痛い」
と悲鳴を上げる。
弟子以外には効かない技なのだ。
「武道としては役に立たない」
と時津氏はバッサリ片付けている。
ただ時津氏もそうした神秘的な技に興味がなかったわけではないようで、一時は西野流の門下におり、古い本では写真入りで紹介されている。

武道だけでなく宗教の世界にもそうした現象はある。
以前にテレビ番組で、どこかの新興宗教の女性教祖が同じような技を披露していた。
お堂のようなところに何十人かの信者たちが集まっていて、その中心にいる教祖が軽く手を挙げて回りを払うような動作をすると、集まった信者たちは口々に、
「わああ」
と声を上げながら、次々と後ろにひっくり返っていくのだ。
ひっくり返った信者たちもおそらく自分の体感としては、強烈な波動で吹っ飛ばされるように感じていたのだろうと思う。
しかしその横で取材しているテレビスタッフは、何事もなく撮影を続けていた。
要するに、信者以外には効かない技なのだ。

●修行としての「対気」

誤解を招かないように付け加えると、西野先生は別に宗教がかった人ではない。
大阪の人で話しぶりはいつもほがらか、筆者のような下っ端の受講生に対してもいたって気さくな方だった。
「対気」も別に宗教ではないし、武道の修行でもなく、足芯呼吸と同じく気の流れを整え強めてゆくための修行法という扱いである。

対気とは、磁石で鉄をこするのに似た修行法ではないかと思う。
よく知られているように、鉄の分子は一つひとつが磁石としての性質を持っている。
ただ普通は分子の磁気の方向がまちまちなので全体として打ち消し合ってしまい、鉄の塊があっても磁力などないように見える。
ここでその鉄の塊を別な強力な磁石で何度かこすってやる。
すると磁石の磁力に引っ張られ、鉄の内部の分子の磁気の方向が一つに揃ってきて、打ち消し合いがなくなり、鉄の塊が次第に磁石としての性質を帯びるようになる。
対気の場合もそれに近い。
気は、西野先生によれば、細胞の一つ一つから発せられている。
その流れは普通の人ではバラバラになって乱れているが、その流れを整えてやることで、全身の細胞が活性化し、気の力も強くなる。
指導者が腕を押したり引いたりしながら気を加え、教わる側の人の個々の細胞が発している気の方向を揃え、大きな流れを導いていくことで、効率的に気の力を強めてゆくことができるのだろう。
磁気を帯びた鉄同士は同極同士を近づけると反発するが、同じように気の流れを互いに反発するようにぶつけ合わせると、斥力が生じて弱いほうが飛ばされてしまう。

筆者の場合、最初はわけもわからず飛ばされているだけだったが、そのうち対気の中で、自分の押し出した「気」が指導員に吸い込まれていったり、指導員が「さあ、飛ばすぞ」と構えた瞬間、吸われていた気が塞き止められ、空気の壁のようなものが出現して、それがちょうど機動隊の楯のように寄せてきて体を弾き飛ばしてゆく――といった細かな感覚がわかるようになってきた。

●お金が尽きて退会

ただ気の感覚がつかめてきても、本に書かれているように、呼吸法を習ったことでそれまでより健康になるとか、人間関係が好転したりといったご利益は特になかった。
自分のやり方が間違っているのかと思い、一般クラスで稽古するようになってしばらくしてから、初心者クラスに戻ってみたことがある。
すると対気の際、指導員の人たちが不思議そうな顔をして、
「このクラスの人じゃないですよね」
「もう上のクラスに上がってもいいんじゃないですか」
と言う。
自分では何も変化が起きていないように感じていたのだが、指導する人たちから見るとそれなりに進歩はしていたらしい。

見ていると、何年も呼吸法に通っているベテラン受講生でも、インフルエンザにかかって鼻をずるずるやったりしていたから、健康になるとか運が良くなるという話については、まあないわけではないにしても、あまり期待しすぎない方が無難だろう。

青山の西野塾は当時、週1回のコースで月に1万5000円と高めの料金設定で、お金のない筆者が長く続けるのは苦しかった。
最初は週に1回のコース、最後の1ヶ月はほぼ毎日のコースで、合計して半年ぐらい通ったが、残念ながらそのあたりで予算が尽きてしまい、退会することに決めた。
結局、筆者の「気」の修行はそこまでで終わった。
期待していたようなご利益はこれといってなかったが、いろいろと貴重な体験ができたと思う。
今は東京都渋谷区をはじめ何か所か稽古場があるようなので、興味のある方は門を叩いてみるとよいだろう。
少なくとも筆者が通っていた当時は、見学すると入会を強制されるとか、退会しようとすると引き留められるとかいうことは一切なかった。

●「気」とは何か

気功や呼吸法を学んだ経験から筆者は、「気」とは観念的なものではなく、物理的な存在であると考えるようになった。
ただ対気などで「気がその物理的なパワーで人の体を飛ばしているのだ」という考えには賛同しかねる。対気で飛ばされるときも、物理的な意味では本人の筋肉の力で走ったり跳ねたりしているのだと思う。
自分の肉体が自分の意志ではなく相手の気によってコントロールされているので、体感としては「抵抗できないほど圧倒的なパワーに吹き飛ばされてゆく」という印象になるのだろう。

筆者は「気とは神経やホルモンなどと同じく、細胞間で情報をやりとりするための信号であって、その正体は特有の波形を持った電磁波ではないか」と考えている。
細胞間の情報伝達の手段としては、現在はシグナル分子による生化学的な方法しか知られていないが、細胞学者のブルース・リプトンなどは著書で「細胞膜上に電磁波による情報発信を行う分子器官とその情報を感知する受容体が存在するのではないか」と示唆している。
人間だけでなく他の動物や植物も気を発していることから考えると、「気」は神経系よりもはるかに起源が古く、地球上に単細胞生物しかいなかった頃から存在し、植物と動物両方に共通する情報伝達システムなのではないか。
情報伝達システムとしての気は、神経系に比べると情報量が少なく伝達速度も遅いが、空間的に離れていても伝わり、別な個体や別種の動植物とも情報を交換できるという特性がある。
今後研究が進めば、現在も中国医学で行われているように、気の動きを診ることで体調を管理したり、気の流れを整えることで心身の健康を増進することが、より一般的になっていくのかもしれない。

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