気功太極拳体験記

●太極拳と気功

30代初めの頃、数ヶ月間「気功」を習っていたことがある。
武術に使われる気功があるという話を中国武術の本で読み、興味を持っていたところ、たまたま当時の筆者の自宅の近くで、日本気功協会という気功関連の団体が主催する気功の講座があった。
しかもその講座の講師が、筆者が読んだ本で紹介されていた中国拳法の先生だと知って、さっそく申し込んだのだ。
筆者が読んだ中国武術の本は、武術関係では有名なF堂という出版社が出したもので、数人の現役の中国武術家が登場する。中でもこの先生は、前の記事で「気合術」と呼んだのに近い、相手の力を自在にコントロールする技を使う達人ということだった。
仮にS先生としておく。
講座の内容は、気功を養うことを目的とする太極拳の指導ということだった。

太極拳には多くの流派があり、中国の公園などで大勢の人がやっている太極拳は、楊澄甫という高名な先生が考案した「楊氏太極拳」の中の「大架式」という型で、老人や女性でも無理なく行える健康法として工夫されたものということだ。
空手などをやっていると、人を痛めつけるために考案されたはずの武術の型がなぜ健康法になるのか、なんとも不思議な気がしてしまうのだが、その底流には、
「人の体内には経絡に沿って気が流れており、特定の呼吸や動きを行うことで、その気の流れを整え、健康を増進することができる」
という東洋医学の思想がある。
健康法としての太極拳はその意味では気功に近いのだ。

治療者に気を当ててもらうことで病気を治すことを「外気功」、自分で体内の気の動きを制御して健康を保とうとすることを「内気功」と呼ぶ。
内気功のうち、足を組んで座ったり、手を広げて立ったりなど、一定の姿勢を保ちつつ、呼吸法や瞑想法と組み合わせて気の流れを整えようとするのが「静気功」。
動きながら気の流れを整えるのが「動気功」。
前者は座禅に通じるもので、後者は太極拳に通じるものだ。

●「気」の感覚

S先生が講座で教えていたのも、太極拳の型を通じて気の流れを整え、強めるという気功健康法だった。
市民講座の中のコースだったので、一緒に習っていたのは主婦や退職した高齢者の方たち。30代初めの筆者が最年少だった。
内容は「站椿(タントウ)」と呼ばれる立禅(りつぜん)、つまり立って行う禅と、初歩的な太極拳の型で、戦うことではなく、気を整えて健康になることが目的である。
S先生は40歳前ぐらいの男性で、やや小柄で細身、穏やかで誠実そうな方だった。
一見すると武術家には見えないが、前述のF堂の本によると、若い頃は拳法の散打(空手でいう組手)ばかりやっていたということである。
日本には気功を教えに来たわけではなく、大学に留学するために来たとのことで、日本語も不自由なく話されていた。

「気」は、中国語では「チー」と発音する。
講座に通い始める前、筆者は気功も太極拳も未体験で、そもそも「気」というものの存在自体に半信半疑だったが、講座でS先生から下腹の前の空気を抱くようにして立つ站椿や、太極拳の初心者向けの型の指導を受けるうち、
「これが気の感じなのかな」
という感覚が少しずつ実感できるようになっていった。

それは向かい合わせた指の先を暖かい気体のようなものが結んでいるという感覚であったり、下腹の丹田と呼ばれるあたりがぽかぽかと暖かくなる感じだったり、あるいは型の動きに合わせて、体の中を何か流れてゆくような感じだったりした。それまで本で言葉として読んでいたことが、体感として得られるようになってきたのである。
一緒に習っていた主婦や高齢者の方たちよりは、やや早くそうしたことが感じとれるようになったようだ。おそらく太極拳を学ぶ前に何年間か空手をやっていたことで、ある程度の基礎ができていたのだろう。

●空手にも動気功の要素がある

空手はもともと福建省など中国南部で行われていた「南拳」の技と体系が、戦国時代から江戸時代にかけて「唐手」の名で沖縄に伝わり、明治に入ってから日本武道の再興を志した嘉納治五郎の助力で船越義珍など沖縄の指導者が本土に招かれて、本州に伝えられたとされる(以上、敬称略)。
「唐手」が「空手」と名を変えたのもその頃のことだ。
スタンス(両足の間隔)を広くとり一撃の威力を重視すること、ヌンチャク、トンファなどの武器を使うこと、中国では硬気功と呼ばれる、素手で板や石を割るような技が含まれていることなどは、南拳の特色を引き継ぐものだという。
一方で太極拳など、スタンスが狭く連続技を重視する流派は、中国北部を中心に行われていた拳法で、「北拳」と総称されているという。

南北の違いはあれ、武道としての遠いルーツは中国にあるので、空手の型や呼吸法の中にも太極拳などと同様、気功的な要素が含まれている。
筆者も気功を習い、気の感覚がある程度つかめるようになってからは、それまでは突き蹴りの準備運動としか思っていなかった空手の稽古の中の動作が、実は気の流れを増したり整えたりすることを目的としていたのだということが、わかるようになってきた。

たとえば足を開き、両手の指を床について体をそらしながら息を吐く動き(屈伸運動)、あるいは交差させた腕を回転させながら脇に引きつけ、伸ばしながら息を吐く動き(回し受け)などは、多くの道場生は意味がわからないままに行っているが、いずれも本来は呼吸と動作を通じて気を整え、強化する動気功の動作として考案されたものだろう。

筆者は当時、慢性の腰痛に悩まされており、気功を習う目的の一つも腰痛の解消だったのだが、気功を習うことで腰痛が治るといったことは残念ながらなかった。
しかし気の感覚がつかめてくるとそれがおもしろくて、自宅で毎日、習った型を復習するなどして、あきっぽい人間の割には熱心に学んでいた。

●「導引功」セミナー

講座も折り返しを過ぎた頃、講座を主催する日本気功協会の招きで、本場中国の気功の先生が来日し、数百人ほど入る映画館のような会場で気功の一日セミナーが開かれた。
筆者は「チケットを買ったが、所要で行けなくなった」という同じ講座の男性から券をいただき、会場の隅でそれを見学することになった。
招待された先生が専門とするのは「導引功」という、外気功と内気功の中間的なものである。
講演の後、会場でその実演があった。

筆者が見た導引功の実演は、こんな様子だった。
会場から無作為に観客を数人選んで、ステージに横一列に立たせる。
先生はその後ろに立って、手で風でも送るように、掌を軽く泳がせる。
すると背中を向けて立っていた人のうち、何人かが、ふらふらと前後に体を揺らし始めた。
全く動かない人もいれば、床にひっくり返って海老のようにのたうっている人もいた。
(後でS先生が言うには、動かない人は気に感応していないのだし、海老のようにバタバタやっていた人は、何か勘違いしているのだろう、ということだった)
不思議といえば不思議なのだが、導引功の意味がよくわからなかった筆者は、
「あれで、何か御利益があるのかな」
などと思いながら、会場を後にした。

その夜。
筆者がいつものように、S先生に教わった太極拳の型を一人でやっていると、首を捻るような出来事が起きた。
体が勝手に動き出したのである。
ちょうど会場で気功師の先生に背中で手をかざされて、ふらふら動いていた人たちのように、体が前後左右にふらふら揺れ始め、ついで腰をくるくる回したり、膝を揺すったり、自分では考えてもいない動きを、体が勝手に始めたのだ。
これはなんとしたことだろう。
筆者は動きながら、目を円くしていた。
といっても別にパニックになったわけではない。
驚く一方で、それはごく自然な出来事のようにも感じられたのだ。

たとえば眠くなった時には「あくび」が出る。
それは本人が意図しない動きだが、自然なことなので、思わずあくびが出たからといって自分で驚いたり焦ったりすることはない。
それと同じように体が勝手に動いている間も、誰かに強制的に動かされているといった不自然な感じは全くなかった。
この現象は30分ほど続いて、自然と収まった。
次の夜も、やはり太極拳の練習中に体が動き出したが、最初の夜ほど長くは続かず、10分ほどで収まった。
3日目以降は何も起きなかった。

次の太極拳の講習の時、S先生から生徒全員に、
「この前のセミナーの後、何か変わったことはありませんでしたか?」
と質問があったので、
「太極拳の型をしていたら、体が勝手に動き出しました」
と報告した。
筆者以外の生徒では、そうした現象が起こった人はいなかったようだ。
S先生は、
「ああ。それは『気が入った』のです」
と説明した。
「気が入った」とはどういうことなのか、筆者には今もよくわからないのだが、どうやら舞台上の気功師の先生からは周囲に向かって導引功の気が発せられていて、波長の合う人間がそれを吸収したということらしい。

この導引功は、筆者が経験したような自発動作を通じて気の流れを整え、体の悪い部分を治すという気功治療法なのだという。
自分の体の動きを思い出してみると、腰と左膝が特に激しく動いていた。
筆者はその頃から腰痛に悩まされていたし、以前にオートバイの事故で左膝を痛めたこともあって、この2ヶ所があまり良くない。
どうやら体の方がその不具合を感知して、その部分の気の流れを良くしようと強く動かしたようだ。
人によっては治療後、電車の中で勝手に体が動き出すといった副作用もあるらしい。
当日の会場には数百人から千人近い人がいたはずだが、筆者以外にも多くの人に同様の現象が起きたのだろうか。
不思議なものである。

●武術と気功は別物

そのようなわけで気功体験は刺激的だったが、筆者としてはもともと武道の役に立たないかという興味から始まったことなので、健康によいというだけでは少し物足りない。
そろそろ講習も終わりという頃、S先生に、
「自分は空手をやっているのですが、先生は若い頃、だいぶ実戦的な練習をされたと聞いています。気功は武道に役に立ちますか?」
と訊ねてみた。
先生は、
「気功と武道とは別なものです。武術を習いたいのなら、拳法の先生につくとよいでしょう」
と答えた。
でも本で読んだところでは、S先生は武術の達人という話だったが……と思っていると、先生は説明の必要を感じたのか、
「じゃあ、ちょっとやってみましょうか」
ということになった。
これはラッキーだ。
達人に直接、技を教えてもらえるとは、願ってもない機会である。
他の生徒も見ているし、温厚な先生だから、ケガをさせられるようなこともないだろう。
「ぜひお願いします」
筆者は両手を合わせて頭を下げ、先生と立ち会うことになった。

先生は自然体で立って、
「好きに打ってきていいですよ」
と言った。
よほど自信があるのだろうか。
ただ好きに打てといっても、その時はスニーカーを履いていたし、仮にも先生である。靴を履いた足で蹴りにいくのは、ためらわれる。
それに本に紹介されるような達人相手にあまり本気で行くと、こちらが痛い思いをするはめになりそうだ。
そこで遠慮して、掌底(平手)で先生の胸を狙うことにした。

「では、お願いします」
声をかけて、左足前の組手の構え(ボクシングでいうオーソドックススタイル)から、ジャブ風に掌底を連打した。
さあ、どうさばかれるのかな、と思っていると……
(え?)
あっさり当たってしまっている。
先生は打ってくる腕をつかもうと考えたらしく、手を広げて真っ直ぐ進んでくるのだが、そのため、がら空きの胸にカウンターで掌底が入ってしまうのだ。
筆者も意外だったが、先生も、
「こんなはずは」
と思われたらしく、踏ん張って前に出てこようとするので、一層当たりがきつくなってしまう。
10秒かそこらそんなことを続けたが、状況が変わらないので、
「あの、こんなもので」
と筆者の方から後ろに下がって、終わりにしていただいた。

いささか気まずい雰囲気でその場を辞した後で、
「F堂の本は、なぜS先生が中国拳法の達人だという書き方をしたのだろう」
と考えた。
筆者の正直な感想は、
「この人は、本格的な組手をやったことはないな」
というものだった。
空手でも柔道でも、日頃から体をぶつけあって稽古している人は、攻撃してくる相手に対する動き方を身につけている。
S先生にはそうした感じが全くなく、失礼ではあるが、格闘技の素人の動きだった。
気功太極拳を学び、気については深い知識を身につけておられるけれども、武道としての中国拳法を稽古していたわけではなさそうだ。

S先生は謙虚な方で、武道の実力を誇張して話したり、組手をやってもいないのに「たくさんやった」と吹くような人ではない。
おそらく筆者が読んだ本の散打云々のくだりは、本の売上を嵩上げするためにライターか編集部がでっち上げたものだろう。
男らしさを売り物にする世界では、ホラや誇張がつきものである。武道の世界も、暴走族などツッパリたちの世界もそうだし、小説家でもそういう人はいる。
武道雑誌の編集やライターにとっては、取り上げた対象の武勇伝を創造して神格化するのはいつものことなのかもしれない。だが本人もホラ吹きならともかく、真面目なS先生にとっては迷惑なことだったろう。

そのようなわけで気功には興味を持ったのだが、本格的に続ける機会は逸してしまった。
それでも短期間の講座を受講したことで、『気』というものが確かに存在し、体にいろいろな影響を与えていることが実感できた。筆者にとっては実りのある体験だったと感じている。

  ≪