痴漢冤罪(ちかんえんざい)の戦慄すべき実態

●「痴漢行為で逮捕」は1990年代から

警察庁では1990年代後半から「痴漢撲滅キャンペーン」を展開、それまで口頭注意で済ましていた痴漢行為の犯人を逮捕・起訴する方針を打ち出した。このキャンペーンは現在も続いており、多くの駅の構内に人気マンガ家を起用した「痴漢は犯罪行為です」というポスターが貼られている。
痴漢行為が卑劣な犯罪であることは言を俟(ま)たない。だが、中には身に覚えのない男性が痴漢と誤認され、逮捕されてしまうケースもある。
痴漢犯罪に誤認逮捕が存在することは、2007年1月に公開された周防正行監督の映画『それでもボクはやっていない』をきっかけに広く知られるようになり、「痴漢冤罪(ちかんえんざい)」という言葉も生まれた。

筆者も当時、雑誌の仕事で映画制作に協力した弁護士を取材したことがある。
そこで初めて痴漢冤罪の実態を知り、慄然とすることになった。
残念ながらその状況は今も変わっていないようだ。

2017年9月に『東洋経済オンライン』に掲載された、「日本で痴漢にされたエリート外国人の末路」という記事がある。
通勤途中に痴漢と名指しされた外国人ビジネスマンが、無実を主張しても聞き入れられず、弁護士からも犯行を認めることを勧められ、それに従わざるをえなくなった過程を取材したものだ。
在日外国人の間では有名な事件ということだが、この男性が受けた扱いは日本の痴漢事件では典型的なものと思われるので、興味のある方は読んでみてほしい。

●痴漢事件の実態

慣れた連中は捕まるようなドジは踏まない。女に手をつかまれて駅員に突き出されたりするのは、素人
と弁護士は言う。
バスや電車の満員の車内では自分の下半身を見ることはできない。手慣れた痴漢は、そこを狙って見つからないように痴漢行為を行う。女性の動きを指先の感覚で先読みし、相手が顔を動かしそうになったらサッと手を引く。
怒りに燃えた女性が周囲の人を押しのけて振り返ったとき、犯人はとっくに手を引っ込めて知らん顔をしている。
女性は手が伸びてきたと思しき方向をにらみつけ、見た目や態度から「こいつだ!」と確信した男の腕をつかんで「痴漢です!」と叫び声を上げる。

怒れる女性の直感が常に当たっていればよいのだが、実際は痴漢慣れした犯人が一枚上手。
いきなり腕をつかまれて呆然としている無実の男性の横で、真犯人は素知らぬ顔をしながら、
「ぎゃはははっ。また引っかかりやがった。バッカでえ!」
と内心で腹の皮をよじらせて笑っている。
彼らは実は女性にさわることより、むしろ女性を怒らせて楽しんでいる。見ず知らずの第三者に罪をかぶせることも狙って仕掛けているのだ。

やってみればわかるが、人間の体は背後から下腹部をさわってくる手を捕らえられるようにはできていない
痴漢行為を受けた女性が、後ろから自分の体に触れてくる手をその場でつかまえることはほぼ不可能だ。いったん背後を振り返り、痴漢が手を引っ込めてしまった状態で犯人探しをするしかない。
言い換えれば、痴漢事件に真の意味での現行犯逮捕は存在しない

痴漢と名指しされた男性が、被害女性に腕をつかまれたままその場に立っている理由は3つ。
1.突然の出来事に頭が真っ白になって、呆然としている
2.言いがかりをつけてきた女性に腹を立てて言い争っている
3.周囲の人たちに自分の無実を証言してもらいたいと見回している
いずれの場合も本物の痴漢がとる行動ではない。
意図的に痴漢行為を行っている犯人は、捕まったら何が起こるかを想定している。本物の痴漢は「見つかった」と感じた瞬間、腕を振り払って逃げてしまう。

痴漢の腕をつかんで駅員に突き出す女性は、「自分が痴漢を捕まえた」と思っているかもしれないが、そうではない。
平均的な体格の男性であれば、女につかまれた腕を振り払って逃げ出すことはたやすい。通勤時間帯のホームの人混みに一度まぎれてしまえば、もう見つけ出すことはできない。
本当の痴漢であれば、おとなしく被害女性に手をつかまれたまま駅員が来るまで待っているようなことはありえない

痴漢の被害女性が駅員に突き出せるのは、逃げようとしない男性、つまり無実の男性だけなのだ。
自分では「痴漢を捕まえてやった!」と昂然としているかもしれないが、あなたに捕まっているのは無実の男であり、あなたは今、本物の痴漢が仕掛けた罠に見事に引っかかって、痴漢の思惑通り、罪のない男性の人生をめちゃくちゃにしようとしているところなのだ。

これが痴漢事件の実態である。
取材後、筆者は「痴漢として検挙される男性の大部分は、実は無実なのではないか」と感じるようになった。

●痴漢行為が有罪とされるまで

電車内で「痴漢だ!」と名指しされた場合、身に覚えがない男性は、「冗談じゃない!」と身の潔白を証明しようと考える。
しかし現実には、そのような機会が与えられることはない。

痴漢の通報を受けた駅員は、応対マニュアルに従って被疑者の男性と被害者の女性を駅事務所に誘導し、被疑者と被害者を別々の部屋に置く。
痴漢行為を行った覚えがない男性は、駅員に対して無実を主張しようとする。
しかし駅員がその主張を聞くことはない。「事実確認は警察の仕事であり、被疑者が何を言っても聞いてはいけない」と教えられているからだ。

被疑者が駅事務所に座らせられている間に、駅から鉄道警察隊に連絡が入る。
警察では「痴漢犯罪の現行犯逮捕」があったものとしてこれに対応する。
駅事務所にやってきた警察官はその場で被疑者に手錠をかけ、パトカーに乗せて所轄署に連行する。この際、携帯電話等も取り上げられる。
痴漢行為を行った覚えがない男性は、警官に対して無実を主張しようとする。
しかし警官がその主張を聞くことはない。「事実確認は取調官の仕事であり、被疑者が何を言っても聞いてはいけない」と教えられているからだ。

警察署に連行された被疑者の男性は、手錠をかけられたまま、警察の取調官の尋問を受けることになる。
痴漢行為を行った覚えがない男性は、取調官に対して無実を主張しようとする。
しかし取調官がその主張を聞くことはない。取調官の仕事は、被疑者を尋問して事件の推移を再構成し、検察が起訴するために必要な事項を含む調書を作成して、被疑者にサインさせることだからだ。

そもそも取調官にとって、逮捕している容疑者に無実を主張されるのは、不愉快極まりないことである。
無実なのに逮捕されたということは「警察は誤認逮捕をした」と言っているに等しい。誤認逮捕は警察にとって大きな恥とされている。
そのような無礼な主張を続ける者に対して、警察は法で許される限り最低の扱いをして報いる。
あくまで犯行を認めようとしない容疑者に対しては、尋問は延々と長引き、時として10時間以上も続く
拘束されてから48時間は弁護士以外の接見は許可されない。弁護士と会えるのも最初の尋問が終わってからだ。

尋問が終わると、被疑者は警察署内の留置場に移動させられる
留置場は狭く、他の犯罪の容疑者と同室だ。
弁護士は、被疑者に知り合いがいればその人を指定して依頼することができる。そうでなければ弁護士会の当番弁護士がつく。当番弁護士の場合、接見は勾留中の一度のみとなる。
以後、弁護士をつけてほしければ自費で頼むか、その費用がない場合は国選弁護人に頼むことになる。

警察は尋問内容を元に調書を作成し、被疑者は調書へのサインを求められる。
調書の中では被疑者が痴漢行為を行ったことになっている。尋問中ずっと「無実だ!」と訴え続けていたとしても、それが調書に反映されることはない。
「これは言ったことと違う」
と調書へのサインを拒否すれば、再び留置場に戻される。容疑を認めない場合、最大で23日間拘束される。
弁護士を通じて保釈を請求することはできるが、容疑を認めない限り保釈請求が認められることはない

●否認すれば起訴され、有罪率は99%

弁護士は無実を主張する依頼人に対して、
「容疑を認めて示談すること」
を強く勧める。
容疑を認めなければ正式起訴され、確実に有罪とされてしまうからだ。

痴漢犯罪の根拠法は迷惑防止条例と刑法(強制わいせつ罪)であり、よほど悪質でない限り、大部分の事例では迷惑防止条例が適用される。
迷惑防止条例違反の罰則は6ヶ月以下の懲役もしくは50万円以下の罰金となっており、罰金相当の犯罪であれば簡易裁判所での略式起訴となるのが建前だが、容疑を認めなければ地方裁判所で正式起訴される
日本の場合、刑事事件の有罪率は99%を越えている。容疑を否認して争ったケースでも、無罪になる確率は3%以下で、有罪率は世界的に見ても際立って高い。
交通機関内での痴漢事件に限定された有罪率は公表されていないが、取材した弁護士の話では、「経験上、戦って勝てるのは1割」とのことだった。

否認を続けると起訴され、裁判が始まる。
起訴された場合は身体拘束はそのまま継続され、保釈されることなく裁判を迎えることになる。
最初の法廷が地方裁判所で開かれるのは、起訴されてから約1ヶ月後。結審までは数ヶ月かかる。裁判費用も最低で100万円以上は覚悟しなければならない。
前述のように、一審では9割以上の確率で有罪判決を受ける。

有罪判決に納得できず高等裁判所に控訴すれば、結審まで最低でも2年はかかり、費用もさらに必要となる。
それでも9割方は有罪にされてしまう。
最高裁は事実についての審査はしないので、高裁で有罪とされた後、最高裁で無罪になる可能性はない。控訴しても上告棄却で終わりとなる。
被告人が無実を訴え続けた場合、数年がかりで最高裁まで行った末に、上告棄却で有罪確定となるのが通常のパターンだ。
「起訴されれば有罪」
が日本の刑事裁判の実態なのである。

●ほとんどが示談を選ぶ被疑者たち

痴漢行為で正式起訴された場合、被告人が受ける苦痛は計り知れない。
公務員の場合、起訴された時点で休職扱いとなる。
一般の会社員の場合、会社からの処分は就業規則によって異なる。有罪・無罪が確定して後に処分内容が決められるのが建前だが、起訴された段階で懲戒解雇されてしまうことも少なくない。解雇されなくとも会社に居づらくなり、辞職ないし休職することが多い。
会社に黙っていようとしても、否認を続ければ長期勾留を受けるので確実にバレてしまう。
痴漢事件の裁判では被告の家族も精神的にダメージを受ける。
痴漢事件の当事者の家族として世間をはばかることになり、奥さんがうつ病になったり、自殺を図るケースもある。裁判がきっかけで家庭崩壊に至る場合もある。

こうした現実を知る弁護士は「罪を認めて示談しなさい。そうすれば罰金刑で済むし、不起訴になる可能性もあるから」と勧めることになる。
強制わいせつ事件での不起訴率は公表されており、2016年の数字で59.9%となっている。
不起訴になれば無罪判決と同じく、前科などはつかない。普通は会社を解雇されることもない。9割方有罪になる裁判と比べて、不起訴となる確率ははるかに高い。

痴漢容疑で逮捕された被疑者は、拘置所で弁護士から上のような事情を聞かされることになる。
結果、大部分の被疑者が痴漢行為を認め、弁護士に示談交渉を依頼する
弁護士は依頼人が痴漢行為を認めた旨を検事に連絡し、被害者の電話番号を聞いて示談に入る。
示談金額を確定し、示談書に「加害者の罪を許してやってほしい」という文言を入れてもらい、被害届を取り下げてもらう。示談をまとめた上で検察官に勾留取消を依頼すれば、通常はそこで釈放される。
示談交渉に入るのが遅れたり、交渉が長引けば、それだけ勾留期間が伸びることになる。
費用は弁護士費用と示談金を合わせて100万円ほど。不起訴にならず罰金刑となった場合はさらに50万円以下の罰金が適用され、経歴に前科がつく。

●それでも戦おうとする人たち

以上のような説明を受けて、それでもなお無実を主張して裁判に訴える人たちもいる。
「あえて裁判しようという人はみな覚えのない告発に憤慨し、公の場で身の潔白を証明しなければ、と考える人たち」
と、取材した弁護士は指摘した。
数多くの刑事事件を担当していると、依頼人が無実かどうかは話していてわかるという。
もし「こいつ、実はやっているんじゃないか」と感じたら、そもそも弁護など引き受けない、とも。
言い換えれば、痴漢事件で裁判を戦おうとする被告は、ほぼ例外なく無実なのだということだ。
だが弁護士の目から見て間違いなく潔白な彼らでも、裁判では9割の確率で有罪とされてしまう。「潔白を証明したい」という強い思いも虚しく有罪判決を受け、性犯罪者の烙印を押されてしまうのだ。

●「無罪」を訴え続けるのは、司法の権威に挑戦すること

痴漢事件で無罪を勝ち取ることはきわめて難しい。
2014年7月に逆転無罪が確定した、有名な痴漢冤罪事件がある。
容疑者とされたのは中学教師の男性で、バスの車内で女子高生から痴漢行為を告発された。
男性は無実を主張し、容疑を認めなかったため、28日間にわたり身柄を拘束された。
両者の姿はバスの車載カメラに捉えられており、男性が被害者の女性に手が届かない位置に立っていたことが明らかだった。被害者が「さわられた」と告発している時間に男性が車中でメールを打っていたという通信記録も提出され、男性の手の検査でも女性のスカートの繊維片等は検出されなかった。
にもかかわらず、一審では有罪判決を受けてしまう。
控訴して男性がようやく逆転無罪となったのは、事件からおよそ2年半後のことだった。

「痴漢!」と声を上げる女性たちの側には、自分の告発によって相手の男性の人生が破壊されてしまうなどという自覚はない。
上の弁護士が経験した事件の中には、電車の中で携帯電話で話している女性に注意したら、その女性が降りた駅の交番で「おまわりさん、この人、私に痴漢したの。捕まえて」と言い出し、逮捕されてしまったというケースもあった。
ちょっとした意趣返しのつもりだったのだろう。
この件では男性が容疑を認めなかったために裁判となったが、女性は証人として出廷しようとせず、検事の呼び出しにも応じなかったので、いったんは不起訴となった。
男性は収まらず、相手の女性を損害賠償で訴えた。
無理もない。
だが検察側はこれを自分たちにケンカを売ってきたものと捉え、男性を罪に追い込むべく動き始めた。
女性を呼び出して、「この人は私にエッチなことをしました」と証言させたのだ。
それによっていったん不起訴になった事件が「痴漢行為があった」と認定され、取材時には改めて高裁で裁判中とのことだった。

法曹界の常識では、刑事事件における無実の主張は、警察と検察の権威に対する挑戦とみなされるのである。
なぜなら逮捕され起訴された被告が法廷で無実を主張するのは、警察の目からは「警察は誤認逮捕した」、検察の目からは「検察は正当な根拠もなく起訴した」と告発しているのと同じことだからだ。
同様に刑事事件で裁判官が無罪判決を出すのは、検察と警察の面子を丸潰れにすることに等しいのだという。

刑事裁判において、裁判官は基本的に被害者側に立っている。
痴漢事件で被害者の女性が「この男にさわられた」と言い切れば、他に補強証拠がなくても、それだけで裁判官は被告を有罪にしてしまう
被害を受けた女性の側にさほど確信がなかったとしても、裁判になれば検察側から、
「そんな曖昧な言い方ではだめだ。もっとはっきりして」
「もし無罪なんてことになったら、相手があんたに損害賠償を起こすよ」
と強く言われ、証言の仕方の指導を受けて、「この男にさわられました」と断言することになる。

●痴漢冤罪から身を守るために

もし身に覚えがないのに「痴漢だ!」と名指しされたら、どうすべきか。

第一に、決して『すみません』と口にしてはいけない
裁判において、この謝罪の言葉が痴漢行為を行った証拠とされた実例があるという。
青葉台駅で逃走の末に死亡した男性のケースでも、前に立っていた女性ににらまれた男性が「すみません」と口にしたことで、女性が痴漢と確信したと言われている。

第二に、絶対に駅舎に行ってはいけない
駅員は「他のお客さまの迷惑になりますから」などと柔らかい物言いで駅事務所に誘導しようとするが、それに従ったら最後、そのまま警察に引き渡され、拘置されて罪を認めざるをえない状況に陥ってしまう。
ここまで説明してきたように「身の潔白を証明しよう」などと考えるのは、事情を知らない人間の発想だ。

正しい対応は、「私は痴漢などしていません」と宣言し、駅員に囲まれる前にその場から立ち去ることである。
いったん現場を離れてしまえば、現行犯として逮捕されることはない。
現行犯ではない通常逮捕には令状が必要で、相応の証拠もいる。無実ならもちろん証拠などない。
「出勤途中なので失礼」と断って、腕をつかんでくる女性の手を振り払い、堂々と歩いて改札口から出ていけばよい
駅員に呼び止められても、無視する。警官と違い駅員には容疑者を拘束する権限はない。制止しても無視して行かれてしまったら、取り押さえることはできない。
走る必要はないし、線路から逃げる必要などもっとない。線路に降りたりすれば、鉄道営業法違反で現行犯逮捕されてしまう

●続出する被疑者の死

筆者が上に挙げたような対策を紹介することに対して、
「卑劣な痴漢犯を助けることになりかねない」
と批判する向きもあるだろう。
批判は甘んじて受けたい。
だがこの記事により救える命もあるはずだと筆者は考えている。

前述のように、痴漢常習犯に誘導された被害女性が近くにいた別の男性を犯人と勘違いする可能性は、非常に高い。
また男性側から見れば他の乗客に押されてぶつかったといった他意のない接触を、痴漢行為ととって逆上する女性もいるだろう。
その意味では痴漢行為をしているという自覚がなく、「自分には関係ない」と思い込んでいる男性こそ危険といえる。
逆に憎むべき痴漢行為の常習犯は、捕まって突き出されることなどほとんどない。

2012年にはJR西日本の役員だった男性が痴漢行為で逮捕され、首吊り自殺している。
2017年3月、JR池袋駅で痴漢行為を指摘されて線路上を逃亡した男性の事件が大きく報道されてからは、痴漢行為を疑われた男性が線路を逃亡するケースが目立つようになった。
2017年5月には東急田園都市線青葉台駅で痴漢行為を疑われた男性が「俺じゃない!」と叫んで線路に飛び降り、ホームに進入してきた電車に轢かれて死亡している。
同じ2017年5月にはJR上野駅で痴漢行為を疑われて逃走した男性がビルの屋上に追い詰められ、屋上から飛び降りて死亡した。
どれも痛ましい事件というしかない。
筆者は、その全員が無実だったのではないかと疑っている。

死んだ3人の男性にも家族がいただろう。
彼らは駅員についていったり、線路に逃げたりせず、ただ手を振り払ってそこから歩き去ればそれでよかったのだ。筆者がこの記事で書いた内容を知っていれば、みな死ぬ必要などなく、今も家庭を守れていたはずである。
筆者の願いは、記事を通じて1人でもそうした人の命を救うことだ。

この記事を書いていた2018年10月にも、電車内で痴漢と疑われた大学生が線路上を逃亡しようとして逮捕されたことが、実名入りで報道されていた。
まだ20歳だという。
ご両親の悲嘆はいかばかりだろうか。

自殺者まで出ている痴漢冤罪の実態と、それに起因する線路上への脱走事件の頻発は、日本の刑事制度の深刻な問題点を浮き彫りにしている。

●無視される法の理念

日本で警察に逮捕されるということは、人生を大きく狂わせてしまう深刻な打撃を逮捕された当人に与えることになる。
誤認逮捕は極力、避けねばならない。
列車内で痴漢と名指しされ、それに抗議している人間を事実確認もせず現行犯逮捕してしまうという現在の痴漢取締りのやり方は、その意味で常軌を逸している。

また逮捕された人間が容疑を否認し続けるかぎり勾留を延長し続け、目撃者も証拠も調べずに被害者の主張だけを事実として調書を作成し、容疑者に署名捺印を要求するという取り調べ方式も、あまりに乱暴すぎる。

刑事事件の裁判における有罪率99%以上という数字も、それ自体が異常であると筆者は感じる。
痴漢事件において被告が圧倒的に不利とされる状況であえて裁判に訴えようとする被疑者は、担当弁護士の言葉通り、ほぼ全員が全く身に覚えのない者たちであり、むしろ人一倍社会の公正を信じる、正義感の強い人たちであろう。
その99%が起訴事実通りの痴漢であるなどとは、到底考えられない。
彼らの多くは被害者の主張以外に確たる証拠もないまま有罪判決をくだされている。
痴漢事件の刑事裁判により、大量の冤罪が生み出されていることは確実である。

筆者は学生時代、刑事裁判における「推定無罪の原則」を教わった。
無実の者が罪を着せられることを防ぐため、犯罪を犯したことについての証明責任を検察側に負わせ、確かに証明できない限りは罪に問わない、というルールである。
しかし現実の痴漢事件の裁判はどうだろうか。
先に紹介した逆転無罪となった痴漢冤罪のケースでも、明らかに容疑者側が自分が無罪であることについての証明責任を負わされている。
日本の刑事裁判では、無罪であることを被告自らが証明できない限り、有罪が確定してしまうのだ。
だが満員電車の中で、自分がそれまで見たこともなかった相手に対する特定の行為を「しなかった」と証明することは、ほとんど不可能に近い。

法学部の学生が最初に習う刑法の大原則が、裁判の現場で完全に無視されているという事実は、筆者には衝撃だった。

本来、こうした法の精神の欠如に対して最初に声を挙げるべきは法曹関係者、中でも弁護士のはずである。
もちろん中には心ある弁護士もいるだろう。だが筆者がネットで見たかぎりにおいて、刑事裁判の現状を批判したり、痴漢事件の逮捕のやり方を変えるべきだと主張する弁護士のサイトは皆無だった。
裁判官や検察官の心証を害し、裁判実務で不利な扱いを受けることを恐れているのだろうか。

痴漢冤罪の弁護は、筆者が取材した当時は「示談にしたケースで1件2、30万円。拘束時間が長いわりに儲からない」とのことで、事件としてはあまり歓迎されていない様子だった。だが現在では当時の2倍の50万円程度まで弁護料が引き上げられ、示談で済ませるのであれば十分ペイする業務となっている。
『平成27年版 犯罪白書』によると、電車内における強制わいせつ事犯の認知件数は2007年に438件でピークとなり、2014年で283件。迷惑防止条例違反の痴漢事犯(電車内以外も含める)も2007年に4515件でピークとなり、2014年で3439件となっている。
先の記事で取り上げた後見関連業務に比べたら件数的にも金額的にも小さいが、それが弁護士たちの収入源となっている以上、法曹業界としては建前はどうあれ、本音としては今後もなるべく多くの痴漢事件が発生することが望ましく、本気で誤認逮捕を防ぐような方策を提案する気はないのかもしれない。
だが法学部出身の筆者としては、決してそんな弁護士ばかりではないと信じたい。

●改革の提言

痴漢冤罪が社会的な話題となり、筆者が取材したときから既に10年以上が過ぎた。
法曹界に事態を改善する意志があるのなら筆者の出る幕などないし、そうであってほしいと心から願っているが、現実には当時から今日に至るまで、この問題を巡る状況は何一つ変わっていない。
もし法曹界に自浄能力がないというのであれば、外部の人間が声を上げねばならない。
筆者の提言は以下の通りである。

まず痴漢事件における逮捕の方法を変えなくてはならない。

痴漢の通報を受けた場合は、まずは駅舎内で被害者、被疑者の双方から事情を聞き、できれば目撃者の証言も聞くべきである。
聞くのは駅員。難しければ警官を呼んでもよい。発言はすべて録音し証拠とする。
双方の主張を聞いた上で被害者に警察に訴えるかどうかを尋ね、訴える場合には警察署に同行して証言することを求める。
同行できず、被疑者が痴漢行為を行ったという物的証拠もない場合は、逮捕はせず、被疑者に対しては口頭による注意に留める。

次に痴漢事件における取り調べの方法も変えなくてはならない。

取調官は最初に被害者の取り調べを行い、内容を記録し、被害届を出してもらい、被害者を帰宅させる。
被疑者にはその間に弁護士に接見する機会を与える。
その後に被疑者を取り調べるが、初回の取り調べは1日で終わるものとし、住所氏名を確認した上で、勾留はせずに帰宅させる。
取り調べをもとに調書を作成し、改めて被疑者を呼び出して内容を確認させる。
その際、内容に同意できなければ署名捺印する義務はないことを伝え、被疑者による訂正の要望があった場合はそれを書面として残す。
次に取り調べの内容を元に求刑の内容を決定する。
再度被疑者を呼び出し、被疑者が痴漢行為を否認する場合、起訴されることを当人に告げ、被害者と示談する機会を与える。
一連の取り調べの模様はビデオ撮影し、裁判となった場合の証拠とする。

最後に裁判である。

ここでは「推定無罪の原則」を徹底しなくてはならない。
痴漢行為を行ったことの証明責任が検察側にあることを明確にし、被害者の証言以外に証拠を求め、十分な証明ができなかった場合は被告を無実とする。
それだけで無罪となる確率は飛躍的に上がるはずだ。検察はほとんどの痴漢事件について立件をあきらめることになるだろう。
監視カメラに痴漢行為が捉えられていた場合は別として、多くの事例では被害者の主張以外に物的証拠がないからだ。

冤罪を防ぐためにも、真の痴漢犯罪者を捕えるためにも、公共交通機関の車内には極力、多数の監視カメラを設置すべきである。

以上は一案である。
最終的にどのような形とするかについては、実務家と一般有識者による公開の議論によって決めるべきであろう。
とにかく、現状はひどすぎる。
法の理念に則り、痴漢犯を罰すること以上に、冤罪の発生を防ぐことを優先して逮捕から裁判に至る刑事司法のあり方を見直さねばならない。
それをしなければ、今後も多くの痛ましい死者が出ることになるだろう。

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