かつて日本人は時間にルーズだった

●幕末のお雇い外国人の悩み

今回のテーマは「日本人はいつから時間にうるさくなったのか」。
これは数年前、筆者が取材で東京大学の中村尚史教授に伺ったお話の紹介である。
最初に答を言っておくと、それは「明治」のことであり、そうなった大きな理由は鉄道にあるという。
中村教授は日本の鉄道史の研究で知られ、近著『海を渡る機関車』はじめ、いくつもの著作を上梓している。

海外で列車に乗る経験をすると、世界の中でも日本人はかなりパンクチュアル(時間に正確)な国民なのだと実感できる。
西ヨーロッパは比較的時間に正確だが、それでも数分くらいの遅れは普通のことのようだ。遅れたからといって日本のようにお詫びのアナウンスが流れることはない。遅れるだけでなく、場合によっては予告なしで定刻より早めに出てしまうこともある。
中村教授も「ヨーロッパを列車で旅したときは、早発が不安なので定刻より30分早く駅に着いて待つようにしていました。もし日本で新幹線が定刻より早く発車して、ビジネスマンが乗り遅れたりしたら、大騒ぎでしょうね」とおっしゃっていた。
実際、海外でも日本は時間に正確な国として知られ、日本を訪れた外国人も新幹線はじめ列車の運行の正確さに驚嘆する人が多い。
だが教授によれば、日本人が時間にうるさくなったのはこの100年ほどのこと。
明治維新前後はむしろ、日本人の時間のルーズさが外国人たちを悩ませていたのだという。

幕末の1857年から2年間、長崎海軍伝習所教官として勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術などの西洋式の海軍教育を伝えた、ウィレム・カッテンディーケというオランダ海軍の技師がいた。
彼は著書『長崎海軍伝習所の日々(日本滞在記抄)』において、「日本人の性癖」という一節を書き残している。そこでは「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」という嘆きとともに、「修理のために満潮時に届くよう注文したのに一向に届かない材木」「工場に一度顔を出したきり二度と戻ってこない職人」「正月の挨拶回りだけで二日費やす馬丁」などの例が挙げられ、「日本人は無茶に丁寧で、謙譲ではあるが、色々の点で失望させられ、この分では自分の望みの半分も成し遂げないで、此処を去ってしまうのではないかとさえ思う」と、暗澹(あんたん)たる思いを吐露している。

実はこのカッテンディーケの感想は、幕末から明治初期にかけて、幕府や明治新政府に招かれて日本の近代化を助けた西欧出身の教官たちの間で、等しく共有されていた悩みであった。工場で、建設現場で、教練場で、彼らお雇い外国人たちは、全く時間を守ろうとせず、あたかも時計の針など存在しないがごとくふるまう日本人たちに、しばしば業を煮やしていたのである。そうした事情を記した当時の資料は枚挙に暇がないという。
現在の日本では仕事は分刻みでスケジュールが決められている。その中にあっては筆者のような物書きは最も時間にルーズな人種だが、それでも仕事となれば「取材時間の5分前集合」と指示され、それを守らないようだと干されてしまう。
しかしそんな状況になったのは、そう遠い昔のことではない。
いったいいつから日本人は、5分の遅刻も許されないほどのパンクチュアリティ(時間厳守)を身につけたのだろうか。

●教会が主導したヨーロッパの時間厳守

中世以降、ヨーロッパ人の時間感覚を養ったのはキリスト教の教会であった。
当時のヨーロッパではキリスト教の宗教行事の規定が厳格に定められており、祈祷の時間も決められていた。
教会の規定を守るためには、正確な時刻を知ることが必要だったのである。
そのために初期には水時計や日時計が、後には機械式時計が用いられた。
歴史家トーマス・ウッズによれば、記録に残る最初の時計は10世紀の終わり、後にローマ教皇となるジェルベールがドイツの町マクデブルクで修道僧に製造させたものだという。
機械式時計の性能は年月とともに向上し、13世紀には「時」を分割して、より細かい時間単位である「分」と「秒」が生み出された。
教会では正確な時間を表示させるために、日に2回は時計の誤差が修正されていた。(ウィキペディア「時計の歴史」
14世紀から15世紀には各地の市庁舎に時計台が設けられるようになった。
そこでは時報の鐘が鳴らされて、それにより現代と同じ機械式時計に基づく「定時法」が一般社会にも普及した。
定時法とは、1日を24時間に分割し、1時間の長さが常に一定であるような時間計測方法をいう。
現在まで残る最も古い時計は、1386年に稼働を始め、今も「世界で最も古い現役の時計」として知られる、イギリスソールズベリー大聖堂の時計である。

一方、日本では、中国で考案された、1日を12等分する定時法が一時期導入されたものの、室町時代頃からは日の出と日の入の間をそれぞれ6等分する「不定時法」が用いられるようになった。その単位は一刻=約2時間だった。江戸時代には、不定時法に合わせた機械式の和時計も作られた。(ウィキペディア「時刻」
江戸時代、一部の大名は別として、一般庶民の間に時計を持つ習慣はなかった。
庶民にとっては、夜明けから日没までを6等分した不定時法で一刻おきに鳴る寺社の鐘が、時間を知るためのほぼ唯一の手段だった。
不定時法では一刻の長さは昼間の長さによって変わってしまう。
たとえば同じ「朝五ツ」といっても、冬至と夏至では1時間半以上の差があった。江戸時代の日本人の時間認識は、一刻とされた鐘と鐘との間隔を、自分の感覚で2分割した半刻がせいぜいの、大ざっぱなものでしかなかった
江戸時代の日本では、半刻(一時間)程度の遅刻は問題なく許容範囲だった。時刻を定めて待ち合わせをした場合も、双方が約束した時間から一刻以内に来れば問題にはならなかった。つまり半刻から一刻ほどの時間、相手を待つのは、当たり前のことだったのである。
幕末から明治初期に日本政府に雇用されたお雇い外国人たちが日本人の時間に対するルーズさに怒っているのは、当時の西欧先進諸国の国民と日本人との、時間感覚の違いが原因だった。19世紀後半当時、ヨーロッパ人が既に500年にわたり分単位で時間を考えていたのに対し、同時期の日本人はまだ一刻単位で考えていたのである。
明治大正期、渋沢栄一などと同時代に、福岡で炭鉱の経営にあたっていた安川敬二郎という企業家がいた。安川は克明な日記をつけており、当時の貴重な資料となっている。
その日記を読むと、明治初期においては、たとえ待ち合わせを約束して人の家を訪ねた場合であっても、1、2時間待たされるのは普通のことだったことがわかる。
待たされた側もそんなものだと思っているので、怒りはしない。特に相手方の社会的地位が高い場合は長時間待たされるのが当たり前で、半日待っても帰ってこなかったので、会うことができずに引き返すということもあった。

●明治の一世代で時間に正確に

こうした西欧と日本の時間感覚のギャップは、明治の一世代で解消する
中村教授はアメリカで、1904年から5年にかけて日本全国を回り、鉄道機関車の売り込みを行ったアメリカ人の日記を読む機会があった。
鉄道関係者の日記だけに、そこには鉄道で移動した際には正確な発車時間が分単位で記載され、起きた出来事についても詳細な説明があった。しかしその中に、列車が遅延して困惑したとか、日本人の時間感覚のルーズさに辟易したという話は一度も出てこなかったという。
1900年代の早い時期に同時期に日本に滞在したり日本人と交渉したその他の欧米人の記録を見ても、明治初期に揃って書かれていたような、日本人の時間感覚のルーズさを嘆く記述は見あたらない。
明治維新から三十数年後のこの時期、日本人の時間感覚は欧米人の目から見ても違和感が感じられないレベルに達していたのである。わずか一世代で劇的な変化を遂げたことになる。
中村教授はその大きな要因として軍隊と学校、そして鉄道の運行を指摘している。

日本の鉄道は1870(明治3)年に敷設のための測量が開始され、1872年に新橋-横浜間が開業している。
この当時、インドやトルコなどには既に鉄道があったが、それはイギリスなど西欧の企業が敷設権・運営権を持ち、土地を租借して、主に自国の利益のために営業していたものだった。
しかし明治政府は日本の植民地化を恐れてそうした申し出を断り、かといって自前の資金や技術では建設できないので、イギリスの協力を得てロンドンで公債を発行、資金を調達して自前の鉄道を敷いたのだ。
これは明治政府の英断だった。
鉄道は定時運行が鉄則である。単線に複数の列車が走る場合、時間が守られないと衝突など大きな事故が起きるおそれがある。
新橋・横浜間で最初に開通した列車では、乗客に対しては「ステイション(停車場)に発車15分前には来て、切符を購入するように」と注意していた。発車時間5分前には、停車場の戸が締め切られ、中に入れなくなってしまう。
ただし乗客の側にきびしくする一方で、列車の側が時間通りに発車していたかどうかは疑問だ。少なくとも当初は日本人スタッフの運行技術が稚拙で、列車が定刻通りに発車することは稀だったのではないかと推測される。

鉄道が最初に開通したとき、日本はまだ江戸時代そのままの不定時法の世界だった。
しかし不定時法では正確な運行が要求される鉄道は運営できない。そこで世間とは別に、鉄道に関しては定時法を採用することになった。
初の鉄道開通にあたり、鉄道を管轄する工部省鉄道寮では、
「鉄道築造御成功ニ付テハ、府下遠近ノ人民同一ニ正刻ヲ審認スル様、時辰ノ定則ヲ立ル儀第一ノ緊要ニ候間、芝増上寺ニ有之候大鐘ヲ愛宕山上ニ移シ、毎昼夜各一字ヨリ十二字迄正刻ヲ打報シ――(以下略)」
つまり「芝増上寺の大鐘を愛宕山に移して、定時法で鐘を鳴らしてはどうか」と提案している。
鉄道が開通した明治5年、太政官達により、翌年1月1日から太陽暦が採用されることが決まった。
このとき日本は不定時法から定時法に移行したのだ。

定時法移行と平行して、停車場の建物には時計が設置されるようになった。
明治5年に開通したのは新橋-横浜間の路線については、当時の写真で確認する限り、新橋・横浜どちらの駅舎にも外部に時計は見当らない。しかし2年後の明治7年にできた京都の停車場には、最初から時計が設置されていた。
新橋・横浜駅舎を設計したのは、鉄道の敷設を請け負ったイギリス人技師であり、イギリス国内のいずれかの駅をモデルとしたものと思われる。
当時のイギリスにおいては、鉄道が停車するような大きな街には庁舎か教会に時計があり、そこで時報が鳴らされていた。このため、あえて駅舎に時計を設ける必然性はなかった。
しかし定時法に慣れていない当時の日本で、定時法で運行されている列車に乗り遅れないよう乗客を誘導するためには、定時法に基づく正確な時刻を鉄道側から乗客に教えてやる必要があった。
おそらく最初の新橋-横浜路線の運行でこの点について乗客に混乱があったため、その反省から2年後につくられた京都の駅舎には外から見えるところに大時計を設置することになったのだろう。
鉄道開通当時、発車時間になっても線路でうろうろしていた乗客が動き出した列車に跳ねられたとか、列車から立ち小便をしようとした乗客が列車から落ちたといった類のエピソードが数多く残っている。

明治には鉄道と同じく時間厳守が求められる、軍隊と学校も設立された。
軍は戦争のために時間厳守を必要とする。戦闘の際の作戦行動は、時間を決めて一斉に動き始めなければ成立しない。たとえば全軍が一斉に前進すべきときに一つの部隊だけが時間を間違えて遅れたり突出してしまったら、作戦は台無しになってしまう。
学校も時間厳守を必要とした。
江戸時代の寺子屋では年齢の違う生徒たちが集まり、一人ひとりの進度に合わせた個別指導が中心になっていた。
しかし明治に取り入れられた西欧流の学校制は、教室に同学年の児童を一斉に着席させ、時間を区切って、一人の教師が大量の生徒に効率よく知識を伝えるシステムだった。生徒が時間に揃っていなければこのシステムは成り立たない。必然的に学校は定時始業が原則となった。これを徹底させるため明治初期の学校では、授業開始の5分前に校門を締め切ることを定め、実際にそうされていた。

始業5分前に校門を閉ざすのも、発車5分前に駅の戸を閉ざすのも、おそらくそれまで不定時法に慣れ、時間厳守の習慣を持たなかった日本国民に、「これからはそのようなことは認めない」という、明治新政府の強い姿勢を示すことが狙いの一つだったとみられる。
このようなシステムの登場が、日本人に旧来の時間感覚の変革を迫ることになった。
江戸時代まで一刻単位で動いていた人々は、明治になって5分単位で行動することを余儀なくされたのである。

●日本の鉄道はなぜ世界トップクラスに正確なのか

ただこうした事情は、欧米先進国もみな同じであったはずだ。
ではなぜ日本の鉄道は、世界の中でトップクラスに運行時間が正確になったのだろうか。
日本の鉄道はもともとイギリスの鉄道システムを移入したものだった。
初期の列車の車両はイギリスから輸入されたもので、機関士も最初はイギリス人だった。運行ダイヤ作成もイギリス人に任されていた。運営ノウハウは英文のマニュアルを翻訳することで伝えられた。
鉄道用語の多くは当時の日本語には存在しなかったので、初期の日本語マニュアルでは英語をそのまま音読した名称が用いられた。たとえば駅長は「ステイションマストル」、車掌は「ガールト」、鉄道のポイントを切り替える転轍手(てんてつしゅ)は「ポイントマン」といった具合である。
発車時間の5分前に停車場の戸が締め切られるのも、マニュアルに記載されていた指示だった。
マニュアルはどこでも厳密に作られているものである。実際の現場ではそこに書かれたことを原則としつつ、ある程度柔軟に運用されていることが多い。
しかし明治の鉄道員には士族が多く、几帳面で、完璧にマニュアルを守ろうとした。それが本国を越えるような定時運行の徹底につながっていく。

明治時代半ばになると、英単語そのままだった鉄道用語も徐々に日本語化されてくる。同時に運行のための技術やノウハウも日本人内で蓄積されていった。
日本経済の発展に伴い、鉄道の輸送密度も上がっていった。
このことは日本の鉄道の時間の正確性の向上に直接的に関わってくる。なぜなら鉄道の運行に求められる時間的正確さは、その運行密度と密接に関係しているからだ。
日本の場合、狭い国土に多くの人口を抱えている。このため何かにつけて土地の余裕がなかった。結果、線路にしても西欧諸国の標準よりも幅が狭く(狭軌)、一車両の輸送能力が小さかった。土地の余裕がないため複線化も簡単ではなかった。このため輸送能力を上げるためには運行頻度を上げざるを得なかった。そして運行頻度を上げるには、時間の正確さが必須となる。
運転間隔が短いほど、少しの発着の遅れが前後の列車の運行に影響し、全体としての輸送力が大きく下がってしまうからだ。
日本の列車の輸送密度の高さは、戦争とも関係している。
日本の鉄道の輸送量を調べると、日清戦争前後に急増している。戦争に伴う物資と人員の輸送量の増加が運行密度の上昇を引き起こし、それに伴い鉄道に求められる時間精度が急速に高くなっていったのだ。

日清戦争前後の輸送量の増加、鉄道需要の高まりを背景として、戦争に先立つ1886~88年には日本で最初の鉄道建設ブームが起き、約3年の間に34社が鉄道会社の設立を出願している。戦争中の1894年から戦後の1899年にかけては第二次鉄道熱と呼ばれた鉄道ブームが起き、59社の新規鉄道会社が営業免許を取得している。
ここで問題となるのが他路線との接続である。
複数の輸送機関を乗り継いで目的地に向かう場合、乗り継ぎに失敗すると目的地に到着する時間が大きく遅れてしまう。乗り換えの回数が増えるほど、時間の正確さへの要求も増す。
たとえば飛行機の乗り継ぎでは現在でも2時間程度の余裕をみている。それでも運行の遅れによって接続できないケースがしばしば発生している。
列車の場合、乗り継ぎ時間の余裕はずっと少なく、10分以下しか見込まれていないことも少なくない。これは運行間隔が短いためだ。列車の運行の遅れから乗り継ぎができないと、指定席チケットが無駄になったり、必要な時間に目的地に着けず乗客が損害を被るといった問題が起きてくる。すると乗客からは「おれの切符をどうしてくれるんだ」というクレームが起き、補償の必要も出てくる。
多くの路線によるネットワークが生まれると各鉄道会社には、「余計なトラブルを起こさないよう、できるだけ正確に運行しろ」というプレッシャーがかかってくる。

●地方時は鉄道の必要によって消滅した

日本の鉄道ネットワークでは、1889年の東海道線の全線開通が一つのエポックとなった。東海道線の開通によりそれまで東西で分かれていた鉄道ネットワークが一体化されたのだ。
また東海道線は距離が長い上に輸送量が特に多く、必然的に運行頻度も高くならざるを得ず、定時運行への要求が強くなった。
東海道線の全線開通の翌年、1900年頃には、利用者の側が列車の遅延をきびしく批判するようになっている。
1901年12月の『鉄道時報』には、「発着時間の整斉」と題して、以下のような批判記事が掲載されている。
「近来私設鉄道の列車が其発着時間を誤ることは毎度のことで、時間通りに発着するは稀れで、遅着が殆ど通常になつて居り、時間の整斉を以て第一の務めとすべき駅員自らさへも遅着を普通のことと見做して敢て怪まぬ位いである。或る鉄道にては、一年中殆ど定時に発着したことなしと云ひ――(以下略)」
論者は列車の遅延が日常化していること、鉄道従業員自身に「時間を厳守するの念」が欠如している点を強烈に批判している。
日清戦争以後、官民双方で鉄道建設が急速に進んだ結果、2社以上の線路を経由する連絡輸送が本格化し、時間厳守と定時運行の必要性が高まり、以前なら許容されていた程度の遅延も社会的な批判を浴びるようになっていった。
日本最初の民営鉄道である日本鉄道ではこの当時、内規で列車が遅延した場合の措置を定めていたが、そこで対象としていたのは30分以上の遅延のみだった。それ以下の列車の遅れは、それまで問題とはされていなかったのである。
この時期、日本鉄道は定刻から1時間以上遅れた職員に「遅参出勤簿」に捺印させていた。つまり1時間以下の遅刻は、問題とされていなかったのである。
しかし1903年の社内規定の改定でこれが変わり、少しでも定刻に遅れれば、「遅参」とされることになった。
同社には「時計貸与規定」があり、駅長、助役、車掌、機関方(運転手)などの上級職に会社から懐中時計を貸し出していた。やがて貸し出しではなく払い下げという形になり、1901年には時計所持義務を課される職員が広げられ、改札方まで時計を持つようになった。

日本でも西欧でも、かつては同じ国内でも東西により時刻は異なっていた。
どの地方でも時間の基準は太陽が最も高く上る南中(正午)の時刻である。ところが南中の時刻は、経度により異なる。日本でいえば、九州と北海道では時刻が違うし、東京と大阪でも違っていた。
各地を船で行き来している分には速度がゆっくりなので、それぞれの地方時(ローカルタイム)が異なっていても、大きな問題はなかった。が、列車ではそうはいかない。東西の地域を鉄道で結ぶにあたっては、定時運行の必要上、東西共通の時間を定める必要があった。これが鉄道時である。
イギリスでは全国標準時が定められる以前から、ロンドンを基準とする鉄道時が社会的な影響を持つようになっていた。
日本では1888年1月1日以降、東経135度の明石の時間が日本の標準時と定められたが、東海道線の開通はそれまで使われていた地方時を全国標準時に切り替える要因となった。

鉄道の時刻表は、1920年代~30年代前半の第一次大戦と第二次大戦の戦間期には、1秒を割るほど緻密なものとなり、現在と同様に1分単位で運行を管理するようになった。
こうして鉄道を通じて見ていくと、世界的に知られた日本人のパンクチュアリティの歴史は、20世紀初頭に確立され、現在まで120年ほど続いていることがわかる。
列車の時間が正確であることは、ビジネスパーソンのスケジューリングにも影響を与えている。筆者も受けている「取材時間5分前集合」という指示にしても、「鉄道の時刻は正確なもの」という前提があって初めて意味がある。列車の時刻が数分遅れ、接続が予定通りいかなかったりすれば、10分15分はすぐ遅れてしまう。日本の鉄道ではめったにそんなことがないから、待ち合わせ時間を5分単位で決めるのが普通になったのだ。
中村教授によれば、鉄道の時間の正確性こそが、日本の一般社会のパンクチュアリティをリードしてきたのである。

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