作文の書き方 後編

「作文の書き方 前編」より

●「一文一義」を徹底する

「一文一義」すなわち「一つの文で伝える内容は一つだけに絞る」ことも重要なポイント。
文章を書きなれていない子の作文は、「~して、それから~して、そのあと~して」と、延々と途切れなく続いていくような、「だらだら文」になりがちだ。
以前の記事で取り上げた『源氏物語』でも、練度の低い書き手が書いたと思われる巻ではそうした傾向が強い。
そういう長い文章は主語と述語がセットになった基本文型に区切ってしまう。「一義」を一まとまりとして文を終わらせることで内容が明確になり、伝わりやすくなる。
長い文章の場合、主語と述語が一致しなくなってしまうのもよくあること。書きなれていない人は、長く書いているうちに自分が何を言いたいのか見失ってしまうのだ。一文一義で短く区切ることで、そういった問題もなくなる。

作文ではそのために句点、つまり「。」をなるべく増やすよう指導する。
長い文章を書いてきた子には、「ここで二つに切れるよ。そうするとマルが増えるよね」と基本文型に分けてみせる。
「単文、重文といった文法用語は使わずに、『マル一つが五百円玉だと思って、それをたくさん貯めよう』と言っています。目標は句点を10個貯めて、5000円にすること。文が10個あれば、かなり内容のある作文ができますから。提出された作文ノートの『。』に色をつけ、『昨日は1000円。今日は1500円になったね』とやっています」
そうすることで子どもたちは読み手にとってわかりやすい文章の書き方を覚えると同時に、「作文を書くためには文を積み重ねていけばいいんだ」ということが体感としてわかってくるのだ。
「そうやってだんだん多くの五百円玉を貯めることができるようになると、それが作文の書けない子には大きな喜びになるんです。つまり長く書けるようになった喜びですね」
ここは大きなポイントだ。
習い事は上達していく喜びがあるからこそ続けられる。それを「五百円玉を貯める」という形で視覚化していくことで、作文に苦手意識を感じている子にもやる気を与えることができるのだ。

●比喩を使う

比喩(ひゆ)とは「たとえ」のこと。
目で見たことを形容するときに、「まるで~のようだった」「~みたいだった」という形で使う。
見たものを何かにたとえることで、読み手にイメージが伝わりやすくなる
岡崎先生は、
「子どもたちの書いた作文に比喩が出てくると、教える側にとってはチャンスです。私の場合は『学級便り』に載せて、みんなに『これはいいよ』と伝えます」
という。岡崎先生は子どもたちの作文のうち出来がよかったものを『学級便り』というプリントに載せてクラス全員に見せているのだ。
「こうやって書くと人にわかりやすく伝わるんだよ」と子どもたちに比喩の効果を納得させてあげると、子どもたちも作文しながら「ここで『たとえ』を使ってみようか」と考えるようになってくる。

比喩を使いこなすには、かなり頭を使わなくてはならない。目の前の光景を描写するだけでなく、それを自分の過去の経験と照らし合わせる作業が必要になるからだ。
その分、比喩を使いこなそうとがんばることが、子どもの国語力を向上させることにもなる。またそれが自分の行動を客観視したり、自分の思考の過程について思考するようになる、「メタ認知」の発達にもつながるのだという。

●作文でメタ認知の覚醒を促す

メタ認知とは、自分の行動や心理を別の自分が上から俯瞰しているような感覚を持つこと。それをするには過去の経験と現在の自分の行動や心理を照らし合わせて考えることが必要だ。そうした照合を習慣化することで、子どもたちの精神年齢が向上していく。
「メタ認知は小学3年頃、年齢でいうと9歳から10歳ぐらいでできるようになってきます」
たとえば小学生が文章を暗記するとき、低学年であれば何も考えずにただ音のつながりを暗記している。しかし高学年の場合、既存の経験や知識から意味を類推しながら覚えている。これは同じ暗記といっても、作業の内容としては大きく異なるものだ。
「メタ認知は子供の能力の発達の一つのポイントといえます。意識してなるべく行わせることが大切で、日常生活の中でも学校の授業の中でも、意識してそれを引き出すような問いを投げかけるようにしています」

たとえばテストがあったとする。
教育上、テストで大事なのは「何点取れたか」という点数ではなく、「どこでどうしたから、答を間違ったのか」と、自分の行動を検証することだ。
岡崎先生は、「何かを振り返るのでも、文章化することでしっかり記憶にしみ込む」という観点から、テストについて作文を書かせることもしている。
「ここで線が1本だと思ったんだけど、本当は2本だった。それで間違えてしまった」
「~という漢字と間違えた」
という、誤答に至った自分の行動を認識することで、次から間違えることがなくなるのだ。これもメタ認知の一種である。
間違いに至った自分の行動を振り返り、次から訂正する習慣をつけることは、子どもの進歩にとって大きな力になる
学校の作文にはそんな使い方もあるということだ。

●文末を変えてリズムをつくる

日本語では、文末に「~ました」「~でした」という同じ言い回しが続きがちだ。
ある程度はしかたがないが、あまり同じ終わり方ばかりだと単調で稚拙な印象の文章になってしまう。実際、子どもの文章は「ました」が続くことが多い。
読みやすい文を書くためには、文のリズムも大切だ。
そこで文末の言い回しをいろいろ変えて、リズムのよい文章になるよう工夫させる
たとえば「リズムも大切だ。」の代わりに「リズムも大切。」と名詞の部分で句点を入れる「体言止め」を使ったり、受動態にしてみたりといった工夫をこらすのだ。
「工夫しました」なら「工夫してみました」とか「工夫しています」とするだけでリズムが変わる。

まずは先生自ら、文末を全て変えた文章を作って子どもたちに読ませ、「どこに工夫があるのかわかる?」と訊いてみる。
最初はわからないことも多いが、「文章の終わりが全部違っているだろう」と教えると、「あー!」と気がついて声を上げる。
そこで「みんなもやってみようか」といって、文末を全部変えて作文を書くという課題を出すのだ。
「これはなかなか難しい作業で、6年生になっても挑戦すると大変です。しかし作文の上達のためには効果的な方法で、文末を自在に変えられるレベルになると、かなり文章が書けるといえます」
とのこと。
そう聞かされたので、筆者も先生に取材したときの記事では全て文末を変えてみたりした。

●言葉の言い換えを考える

上級編として、「仲間内で使うような口語的な文章と、一般の読者を意識した文語的な文章を使い分ける」という工夫がある。
筆者のようなライターも、記事によって「ですます」と「である、だ」を使い分けたり、同じ取材内容でも本人が一人称で話す語りおろしスタイルとすることもあれば、地の文と「」の会話体を組み合わせるなど、状況に応じて使い分けている。
子どもたちの場合、国語の時間に遠足について書かせるといった行事作文では「~しました」という平板な文章が多くなる。
一方、担任の教師が読むという前提で書かれた毎日の日記には、慣れとともに「~をやった」「~しちゃった」というような、日常のおしゃべりに近い口語体の文章が出てくるようになる。
そこで先生は「公式な文としては、その言葉ではなくどんな言葉を使えばいいか」と問いかけ、子どもたちに考えさせるのだという。
「子どもはたとえば何かの行動を行ったというとき、『名詞+した』という形を使うことが多いのですが、これを別の動詞で置き換えられないか、といったことを考えてみます」

●見たこと、聞いたことを掘り下げてみる

見たことや聞いたことを読み手に伝わるよう描写できるようになってきたら、今度はそれを深く掘り下げる段階に入る。
「作文の書き方がわかってきて、きちんと描写するために物事を注意深く見る習慣ができてくると、子供たちの作文の中に『よく見ると~だった』という言い回しが登場するようになります。続いて『おかあさんに聞いてみたら~ということだった』というように、『聞いてみたら』という行動も出てきます」
ただ見てみただけではなく、よく見てみる。さらに誰かに聞いてみる。
こうした「~してみたら…だった」は子どもたちの進歩を示す兆候だ。
それが発展すると、さらに「調べてみたら」「やってみたら」と、いろいろな「~してみたら」が出てくる。これには「さわってみる」「匂いを嗅いでみる」「ひっくり返してみる」「戦わせてみる」など、さまざまなバリエーションがある。
そうした「深堀り」の行動が子どもたちの作文に出てきたら、見逃さず褒めてあげる
深掘りしていく中でいろいろな発見が生まれてくる。それは大人にとっては当たり前のことかもしれないが、そうして深掘りする習慣がつくことで、それまで誰も考えてもみなかった事実が発見されるかもしれないのだ。

●テーマに沿った文章を書く

日常の出来事について文章で描写できるようになってきたら、テーマを決めてそれについて書く練習を始める。
これは中学高校はもちろん、大学に入っても社会人になっても求められる作業だ。
その前段階として岡崎先生は「何かのメガネを通じて物事を見てみる」ことを勧めている。
メガネとは「キーワード」ということ。「視点」と言ってもよい。
たとえば「ゴミ問題」というキーワードを掲げ、目の前の出来事や風景を全て「ゴミ問題」のメガネを通じてみてみる。
「5年生の社会科で『ゴミ日記』を書くことを行っていますが、一度それをすると、自然に日常のゴミ出しの方法やゴミ収集の仕組みなど、それまで関心がなかったところに目が向くようになります。『ゴミ置き場は誰がきれいにしているのだろう』『なぜカラスが集まってくるのだろう』『ゴミ収集はどういう順番で回っているのだろう』『同じゴミ置き場にはいつも同じ人が回ってくるのだろうか』といったいろいろな興味が湧いてきて、それが『聞いてみる』『調べてみる』につながってきます」

小学校でも自由研究のように、自分でテーマを決めて作文しなくてはならないことがある。そうしたとき一番大変なのは「何を書くか」というテーマを決めることだという。
「とにかくゴミのことを書けばいいんだ」とテーマが決まるとラクになるのだが、そこまでが悩むところなのだ。
よい自由研究作文につながるテーマとして、岡崎先生は「一つのキーワードを通じて興味があちこちに広がりそうなものがよいでしょう」と勧める。
「たとえばダイエットというキーワードなら、『これもダイエットにつながる』『あれもつながる』といろいろな発見があるでしょう。一方で『犬』をキーワードにすると視点が限定されてしまっておもしろい作文になりにくいし、『食べ物』をキーワードにすると逆に広がりすぎて扱いにくくなってしまう。大人が見ると『こんなにたくさん関係するものがある』と思うのに、子どもたちはそれに気がついていないといったキーワードが効果的です」
そうしたテーマ探しのためにも「メガネ」という考え方は有効だ。
「たとえば『季節のメガネ』と言っているのですが、『春のメガネ』『秋のメガネ』をつけて周囲を見てみます。夏の暑い最中に『秋』に関わるものを探したりするのです。あるいは真冬に『春』とつながるものを探したりします」
真冬の一月に、春になると始まる花粉症の薬が売り出されていたり、春になると開くつぼみが育っていたりする。それが作文のテーマとなるわけだ。

●学校での作文指導の注意点

作文がうまくなるためには、とにかくたくさん書くことが第一。そのために「人に読んでもらうこと」を前提として日記を書かせる
「日記による作文の練習は、ちゃんと読んでくれる人がいれば、つまり読んで共感し、感想を言ってくれる人がいれば長く続けられます」
と岡崎先生。
「私の場合、クラスの全員に毎日『どきどきノート』や『発見ノート』を提出してもらい、全てに目を通して、『いいねえ』『なるほど』と感想を書いて返していました。『ここをこうしたらもっとよくなるかもしれないよ』という言い方はしましたが、言葉遣いや漢字の間違いは指摘しませんでした」
先生が内容に共感するのではなく、文章の間違いをチェックし添削してくるようだと、子どもたちは書くのが嫌になってしまい、続かないのだという。

もう一つ大事なのは、クラス全員で注意すべきポイントを共有していくこと。
岡崎先生は日記に感想を書いて返すだけでなく、『学級便り』という形で子どもたちの作文の一部を全員に紹介していた。
「クラスメートの出来のいい作文をみんなで読んで、『どこに工夫があるのか』『なんで読む人を惹きつけられるのか』を子どもたち自身に発見させるのです。たとえば『会話がある』『音が表現されている』『見たことがきちんと描写されている』といった点がポイントになります」
見も知らない作家の名文を見るより、身近なクラスの仲間の文章をお互いに見ることのほうが、子どもたちの文章力を上げていく効果が高いのだという。
「子どもたちは日常の経験を共有しています。自分もいた同じ場面を、一緒にいた他の子が自分と違う見方で表現する。『そうか、あの子はこういうふうに見ていたのか』と感じ、それが刺激となるのです」
こうした形でフィードバックを続けていくうちに、子どもたちはクラスメートを読者として意識するようになってくる。
「『こんな風に書いたら受けるかな』とか『こう書けば先生、載せてくれるかな』という意識が芽生えるのですね。高学年ともなると私が授業で『こんな風に書くとおもしろくなるかもしれないよ』とレトリックを教えたりすると、『先生がヒントをくれたから、それを使って書けば載せてくれるかも』と、こちらの行動を読んで、使ってくるようになります」
岡崎先生のお話を伺っていると、まさに筆者が小3のときに受けていた作文指導そのまま。改めて自分がいかにハイレベルな作文指導を受けていたのか実感することになった。

だがこのような指導を行っても、一朝一夕には子供の文章は変わらない。
「毎日繰り返し言い続けても、提出してもらうノートの文章から『今日、ぼくは』『と思った』が消えるまで1ヶ月ぐらいはかかります。一文一義についても、やはり言い続けながら1ヶ月はかかります。文章がはっきりと変わってくるまでには、毎日作文を書いて提出し続けておよそ3ヶ月、100日ぐらいかかるのが普通です」
ある日、1日だけ授業したから、その日から言われた通りの文章が書けるというものではないのだ。
指導する先生によほどの情熱がなければ、続けられるものではない。

岡崎先生によれば、ここに挙げた内容は小学校の作文指導では常識に類することだという。
とはいえ、はたしてどのくらいの先生がここまできちんと意識して作文指導しているのかは疑問である。
筆者の知る範囲内で、毎日全生徒に日記を提出させて赤ペンを入れていたのは、後にも先にも小3のときの担任の先生ただ一人だった。
日本の全小学校の先生がそれぐらいしっかり指導してくれれば、日本人の作文能力は大きく向上するに違いない。
もちろん先生は超人ではないし、作文に力を入れるからといって算数も手を抜いたりせず、きちんと指導してくれなければ困るわけだが。

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