本の書き方 読みやすい文章とは 1

●作文の基本

「ピラミッド・プリンシパル」「文章の図解の勧め」と、構成についての話が続いたので、今回は趣を変えて「読みやすい文章の書き方」について考えてみたい。
これは一家言持っている人が大変多い分野だ。というかすべての編集者とライターが各々(おのおの)持論を持っているのではないかと思う。
筆者にも持論はあるが、それは世の中の文章指南本が言っていることとは少々ずれていたりする。
「そういう意見もあるんだな」程度に読んでいただければ幸いである。

さて、前に「作文の書き方」で、小学校での作文指導の話を書いた。
そこで出てきた「よい作文を書くためのポイント」は以下のようなものだった。

・「今日」「ぼくは、わたしは」で始まり、「~しました」「~と思いました」といった子どもの作文特有の言葉は、できるだけ使わない。
・やはり子どもの作文に多い、「~だった。でも、~だと思った」「でも~だった」という接続詞「でも」も禁止。
・「~して、それから~して、そのあと~して」などとだらだら文章を続けない。「主語+述語」の基本文型に区切る。
・「きれい」「すごい」「たくさん」といった感想に類する形容詞もできるだけ使わない。もっと具体的な色や形や匂い、音の描写、数や長さで表現し、読んだ人が書いた人の経験を追体験できるようにする。
・文末が「でした」「ました」ばかりで単調にならないよう、言い回しをいろいろ変えてみる。
・比喩を積極的に使う。見たものを何かにたとえることで、読み手にイメージを伝える。

以上をざっくりまとめると、
1.「文章の出だしや終わりが単調な繰り返しにならないように」
2.「『一文一義』の基本を守る」
3.「描写は具体的に」
4.「比喩を使う」

といった項目に分けられそうだ。

小学校の作文における指導ポイントとはいえ、上の項目がちゃんとできている大人は少ないだろう。
そもそも日本の大部分の大人は、小学校の担任の先生が特別に作文指導に熱心だったという例外の人は別として、子どもの頃に本格的な文章の書き方の指導など受けていないのだ。作文の基本ができていないのは当然とも言える。
ということで、まずは上で挙げられたポイントのうち、最初の二つを少し細かく見ていこう。

●単調さを防ぐ

日本語の書き言葉には大きく分けて「です ます」で終わる「敬体」と、「である だ」で終わる「常体」があり、敬体はとくに単調になりやすい。
文が一つだけなら問題ないが、いくつもある文がみな同じ終わり方だと、読む側は飽きてしまう
これは文末の終わり方のバラエティが少ないという日本語の特徴からくるものだ。
単調さを和らげるためのテクニックとして、「体言止め」「助詞で終わらせる」「同じ言葉の繰り返しを避けて言い換える」といった方法がある
「文末が単調にならないようにする」というのは、そうしたテクニックをうまく使いこなせということだ。

体言とは名詞のことで、「体言止め」とは「文章を名詞で終わらせる」こと
たとえば、
「『先生、あのね』という書き出しの日記も定番の作文指導法の一つなのだ。」
という代わりに、
「『先生、あのね』という書き出しの日記も定番の作文指導法の一つ。」
で終える。あるいは、
「『書けなかったのは、書き方を教わっていなかったからではないか』と先生は言う。」
という代わりに、
「『書けなかったのは、書き方を教わっていなかったからではないか』と先生。」
で切ってしまう。
この段落の最初の行の「体言止めとは~こと。」というのも体言止め。止めないで最後まで書くと、「『体言止め』とは『文章を名詞で終わらせること』である。」となる。
日本語特有の文末の単調さを避ける一番簡単な方法は、文末をカットしてしまうことだ。
体言止めもそうだし、後出の「助詞で終わらせる」書き方も同じだ。どちらも文が短くなるので文章のリズムが速くなる。ただあまり使いすぎると鼻についてくる。

助詞とはいわゆる「てにをは」。「が」「は」「の」「と」「から」「まで」「ても」など、いろいろある。
助詞で文章を終わらせるときは、たとえば
「第一分隊、北へ向かえ」
という代わりに、
「第一分隊、北へ」
と省略する。
文章上の効果は体言止めに近い。文末だけでなく、「向かえ」という動詞(ここでは命令形)まで省略している。

「同じ言葉の繰り返しを避ける」というのは、たとえば記事などで、
「『』と言った。さらに『』とも言っている。」
という具合に同じ言葉を繰り返す代わりに、
「『』と指摘した。さらに『』とも述べている。」
というように、言い換えをすること。
とくに動詞の繰り返しは目につき、言い換えをしないと文章が下手に見える
中でも「言う」は頻出語なので、他にも「~と説明する」とか「~と打ち明ける」(←新聞記事でよく見かける)とか、さまざまな言い換えをする。

さて。
「文章の単調さを避ける」というのは、素人だけでなくプロも含めてほぼ全ての書き手が気にかけている作文上の重要ポイントだ。
が、小説家などは文体にも個性が問われるので、あえて「~だ。」ばかり続けるような書き方をする人もいる。そこから「大事なのは文体とかじゃなく内容」「オレは本質的なこと以外は気にしない」というアンチっぽいメッセージが伝わってきたり、単調さが逆に理性的でクールな文体と感じられることもある。
一筋縄じゃいかないんだよね、文章の世界は。

ちなみに上の段落の最後の行で使ったのは、主語と述語の順番を入れ替えて強調したい言葉を文頭に持ってくる「語順倒置」という文章テクニック。たとえば「浪花節だよ人生は」といった使い方をする。やはり単調さを防ぐ効果があるが、一方でカッコつけている印象にもなるので、多用は禁物だ。

●一文一義

一文一義とは、「一つの文で伝える内容は一つだけに絞る」ということ
作文指導の場合、これは「接続詞を使って文を続けることを避ける」と言い換えてもいい。
一文一義は「わかりやすい文章」の基本と考えられており、子どもの作文指導での重点ポイントというだけでなく、大人向けの文章読本でもよく目にする項目だ。
子どもの場合、たとえば日記を書けと言われると、
「今日は朝起きて、それから歯磨きして、そのあとご飯を食べて、それから学校へ行きました。」
というような書き方をしてくる。そこでこれを、
「今日は朝起きました。それから歯磨きをしました。そのあとご飯を食べました。それから学校に行きました。」
と直す。
大人の場合、「接続詞の『が』を使って文章を続けると文意が曖昧になるので、『が』はできるだけ使わないようにする」などと書いてある本が多い。

ただ筆者自身は一文一義についてはあまり気にしていない。
上の指導に従うと、たとえば前出の
「単調さを防ぐ効果があるが、一方でカッコつけている印象にもなる」
という文章などは「ブブー!」で、
「単調さを防ぐ効果がある。しかし一方でカッコつけている印象にもなる」
としなければならない。
あるいは、
「子どもの作文指導での重点ポイントというだけでなく、大人向けの文章読本でもよく目にする項目だ。」
もよろしくなくて、
「子どもの作文指導での重点ポイントというだけではない。大人向けの文章読本でもよく目にする項目だ。」
としなければならない。
と、いうのが世の中の文章指導における大勢であるわけだが……

読者諸兄は上のように一文を二文に分けたことで、「文章がわかりやすくなった」と感じただろうか? 本当に?
実は、
「分けたって読みやすさは別に変わらないな」
というのが筆者の感想なのである。
ついでに言えば、
「今日は朝起きて、それから歯磨きして、そのあとご飯を食べて、それから学校へ行きました。」
と、
「今日は朝起きました。それから歯磨きをしました。そのあとご飯を食べました。それから学校に行きました。」
も、稚拙さでは五十歩百歩だと思う。

中には「文章の基本は『主語+述語』である」として、「主語を入れたほうがわかりやすくなる」と勧める人もいる。
それに従うと上の日記文は、
「ぼくは今日は朝起きました。それからぼくは歯磨きをしました。そのあとぼくはご飯を食べました。それからぼくは学校に行きました。」
となるわけだ。
なんというか……
さらに稚拙になったよね、どう見ても。

日記は一人称(主語が「自分」である文章)なので、いちいち「ぼく」とか「わたし」とか書く必要はない。必要ないのに律儀(りちぎ)に主語を入れ続けると、いかにも世慣れない、子どもっぽい雰囲気が漂ってしまう。

「一文一義」にも似た面がある。
分けるべきところは分けなければいけないが、とくに必要ないのに「一文一義にしよう」とやっきになって文を細切れにしていると、読む側にとっては単調だし、「こなれていない文章だな」と感じてしまう(筆者の場合は)。
上の日記文でいえば、「朝起きた」とか「歯を磨いた」とか、人に読ませようとする日記にそんなどうでもいい内容を書いている時点で「子どもっぽい」と感じてしまうのだが、文章についても、筆者なら無理に小分けにせずに、
「今日は朝起きてすぐ歯を磨いて、そのあとご飯を食べてから学校に行きました。」
とつなげてしまうだろう。
ぶつ切りにするより、こっちのほうが読みやすいし「大人っぽい」と思う。

もちろん一文があまり長くなると読んでいて意味が取りづらくなるし、「が、」ばかり続くと鼻につくのも事実だ。
しかし単文ばかりが続くのも芸がない。
「単文」というのは、

小鳥がさえずる。

というように、「主語+述語」だけの文章のこと。
これに対して「重文(じゅうぶん)」とは、

そよ風が吹き、小鳥がさえずる。

というように、「お互いに修飾関係にない単文がいくつも並んだ文」のこと。
さらに「複文」というのもあって、

春を迎えた小鳥がさえずる

というように、「述語を含んだ修飾語や修飾文がついている文」のこと。複文は元の文に加えて修飾用の述語がつくので、述語は2つ以上含まれることになる。

単文ばかり続くより、適度に重文や複文が入っていたほうが、リズムが変わって読んでいて飽きにくい。
さらに言うなら、単文と重文・複文を適切に使い分けて意味ごとのかたまりを作ってやることで、単文ばかり続けるより書き手の意図を伝えやすくなる

たとえば上の段落の最初の行では、
「もちろん一文が……事実だ。」の間に句点(「。」のこと)を打たずに重文にしている。これは「なるし、」前後の文章が、「だらだら文章を続けると読みづらくなる」という同じ主張でそろっていて、できれば両方に文頭の「もちろん」をかけたい、という意図があったからだ。
その次の文で「しかし」以下、「重文にも利点がある」という反対の主張が続くので、前の文をぶつ切りにしてしまうより、一まとまりの文とするほうが段落全体の論理構成がわかりやすくなる。

●基本は基本として…

編集者の中にも接続詞の「が、」を嫌う人は多い。
そういう人はライターが「文が一つだけなら問題ないが、」などと書こうものなら、瞬間に「文が一つだけなら問題ない。しかし」と赤を入れてきて(「訂正する」という意味)、文章中の全ての接続詞の「が、」を削除してしまう。
もちろんこちらも商売だから、
「あ。この編集は『が、』嫌い系か」
と気づいたら、以後は注意して一切使わないようにしている。
別に難しいことではない。

しかしね。
そういう教条主義的な書き方をしていると、文章も固くなってウィットが感じられなくなってしまうんだよね。
基本は基本で大切なのだが、囚われすぎるのもどうかと思う。

接続詞の「が、」に近い言葉に「でも」や「けど(だけど)」がある。どちらも逆接(but)の接続詞だ。
「でも」は主に句点の後に使う接続詞で、子どもの文章にはよく出てくる。
「今日動物園に行きました。でも人がいっぱいであんまりよく見られませんでした。でもちょっとだけ見れたパンダはかわいかったです。」
こんな感じだ。
「けど」は「だけど」の「だ」を省略した形で、使い方は「でも」とほぼ同じ。
「今日野球の試合がありました。けどおれは補欠でした。けど代打に出てヒットを打ちました。」
といった使い方をする。

小学校の作文では、「でも」「けど」どちらも使わないよう指導される。
逆接の接続詞は、それがついた文章を強調するために用いる。しかし何度も使うとどこが書き手が言いたいポイントなのかわからなくなり、読み手が混乱してしまう。なので作文指導では文と文のつながりをあえて順接(and)に限定させるのだという。

確かに「でも」「けど」が何度も出てくると子どもっぽい印象になる。それだけ口語的な言葉なのだろう。
その点は「が、」も同じだ。
ただ文章上達のために子どもの作文の練習ではそれらを禁止にすることはいいとしても、大人も同じように全面禁止にすべきだとは、筆者は思わないのである。
せっかく今ある言葉なのだ。言葉が存在するということは何かしら使い途(みち)があるということ。「が、」は文末の単調さを避ける手段になるし、「でも」「けど」にしても、親しみやすい印象を出したいときや文全体の雰囲気を変えたいときには使える。どうせなら使い方を工夫して効果的なアクセントにすればいい

「SRS速読法体験記」で書いたように、文章の機能とは情報の伝達だけではない。文章とは「書くこと」「読むこと」が対になったコミニュケーションであって、ときには正しい情報を伝える以上に、共感や感動を伝える手段となる。だから文章にも個性が求められるのだし、読み手は書き手がどんな人間か知りたがる。
もちろん決まりがなければ文章はなりたたない。
でも四角四面に規則通りの文章より、感じるままにときに規則を逸脱してしまう文章のほうが、読んでいてわくわくする。
頭で理解しやすい文章と、心に伝わりやすい文章は違うのだ。
そのことがわかっていないと「正しい文章」は書けても、読みやすい文章は書けないんじゃないかと思う。

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