本の書き方 伝わりやすい文章とは 1

●伝わりやすい文章のポイント

今回のテーマは、「伝わりやすい文章」の書き方である。

以前に「作文の書き方」で紹介した、小学校の作文指導における「よい作文を書くためのポイント」は、
1.「文が単調になるのを防ぐ」
2.「『一文一義』の基本を守る」
3.「描写は具体的に」
4.「比喩を使う」
の四つだった。

このうち上の二つ、「文章が単調になるのを防ぐ」と「『一文一義』の基本を守る」については、「本の書き方 読みやすい文章とは」で筆者の意見を紹介した。
以下では残りの二つのうちのポイント3、「描写は具体的に」について考えたい。
これは作文指導でいう、
・「きれい」「すごい」「たくさん」といった感想に類する形容詞はできるだけ使わない。具体的な色や形や匂い、音の描写、数や長さで表現し、読んだ人が書いた人の経験を追体験できるようにする
ということだ。
ポイント1と2が読み手が誤解しにくく読みやすい文章を書くための方法論であったのに対し、「具体的に描写する」ことは、「イメージが伝わりやすい文章」にするためのポイントといえる。

●時間の経過に沿って描写する

「こちらの体験をどうやって伝えるか」というテーマで筆者が思い出すのは、テレビのグルメ番組の食レポだ。
「一口食べたときにプワーッとレモンとスパイスの香りが鼻の奥に広がって、その後にさわやかな酸味と刺激が舌にきて、それから濃厚な比内鶏のうまみが口の中に……」云々という、あれである。

テレビでは音と映像は視聴者にも見えて(聞こえて)いるので、それについてはレポーターが説明する必要はなく、感想だけを述べていればよい。それに対して、そのままでは視聴者にはわからない「味」や「匂い」については感想だけではなく、描写的なレポートが出演者に求められる。
自分の経験を追体験してもらうために、時間の経過に沿って、書き手がその瞬間その瞬間に注意を惹かれたポイントを中心に、対象を描写していくことになる。

食レポでは「料理を箸(はし)で取って顔に近づけて、そこから口の中に入れ、咀嚼(そしゃく)して、味わって、飲み込んで……」という「食べる」という動作の各段階について、それぞれの料理の素材と料理法に合わせたコメントが求められる。
料理評論家は別として、普通は何か食べるときそこまで細かく味や食感を意識してはいないから、これはなかなか難しい。一般人がレポすると、「おいしい!」でおしまいになってしまう。芸能人はみな、意識して食レポのやり方を学んで身につけているのである。朝のニュース番組などでは、新米アナウンサーやタレントがよく「食レポ下手!」とからかわれている。
「言葉を通じて自分の得た体験や感動を追体験してもらう」という目的のためには、そうやって普段はやらないレベルまで順を追って具体的に描写してやる必要があるのだ。
それをするためには「話すとき」ではなく「体験したとき」から、レポートに必要な情報を意識して観察しておくことが望ましい。

文章には動画は付いていないので、書き手は味や匂いだけでなく自分が目で見たもの、耳で聞いたことについても、言葉で具体的に描写することが求められる。
「具体的に」というのはこの場合、「色」「形」「素材」「匂い」「音」などを書き入れることだ。
例として、観光地の駅前で見た情景をレポートしてみる。
「登山鉄道の改札口を出た瞬間に、まるでおとぎ話に出てくる中世の町並みのような石畳の広場とレンガづくりの家が目の前に広がるんです。広場に歩いていくと、植え込みの下の木のベンチでは老夫婦が肩を並べて穏やかな顔で話していて、その足元には『アルプスの少女ハイジ』に出てくるヨーゼフちゃんそっくりのセントバーナードが寝そべっているんですよ。もう私、『ああ、スイスに来たんだ!』って感動しちゃって……」
といった具合。
感想を入れる場合も現在の視点から振り返って言うより、その時々に書き手が感じた気持ちを描写とセットで挿入していくことで、よりライブな(生き生きとした)印象になる。

●用語には解説をつける

こうやって細かな描写をする際、一つ注意しておいたほうがいいことがある。
気合を入れて表現しようとするほど、ついつい「私は勉強してますよ」的な薀蓄(うんちく)が出てきて、いやらしい文章になりやすいのだ。
たとえば音楽会で名演奏を聞いたときの感動を描写しようとして、
「ざわついていた会場が、指揮者のカラヤンがタクトを持ち上げた瞬間に静まり返り、演奏者にも聴衆にもなんともいえない緊張が走ったんです。さすがは伝説の名指揮者ですよね。それから一呼吸置いて第一バイオリンの独奏が始まったんですが、ビブラートの効いた穏やかな音色が築240年のホールのトラベルティーノ・ロマーノの壁とやさしく共鳴して……」
と書いたとする。
この文章では、「タクト」「第一バイオリン」「ビブラート」と「クラシックに無知な連中はわからないだろ」的な言葉が説明なしに並んだ後に、「築240年のホール」(はいはい、勉強してますね)「トラベルティーノ・ロマーノ」(はあ? んだよそれ)などと続くから、ハイソサエティなクラシック音楽ファン以外からは高確率で嫌われるだろう。

食レポも似たところがある。
テレビ番組は必要があってレポしているのがわかるからいいのだが、文章で事細かに食レポされると、それだけで引いてしまわれることがある。たとえば訊かれてもいないのにワインのシャトー名などを文中で使うとスノッブ(知識を鼻にかけている)感が漂うし、「パルマの生ハム」「ノルマンディーの子羊」といったグルメの定番も言葉にするといやらしい。読者からすると、「おまえなんかが知らないことを、おれは知っているんだぞ」と言われた気分になってしまう。
書き手の感動を読者に追体験してもらいたかったら、読者の知らない言葉はできるだけ使わないことが基本だ。必要があって使う場合は、最初に出てきたときに言葉の意味を説明しておくこと。
「シャトー・マルゴー」という言葉を使うなら、「ワインの本場フランスの中でも最も有名なワイン産地であるボルドーで、『五大シャトー』と称される有名な醸造元の一つ」というような、グルメなみなさんから見れば「いまさら」な解説をきちんと入れておく。それは書き手が読み手の目線に立つということでもある。

●読者に引かれない数字の使い方

具体的な描写で気をつけたいことの一つが、数字の使い方。
子どもたちに「できるだけ数字を使いなさい」と指導している作文の先生には叱られそうだが、大抵の人は数字に苦手意識があって、数字だらけの文章には引いてしまう。数字から映像イメージを思い浮かべることは、日頃その数字を扱っている専門家以外には難しい。筆者は数字は、特に親しみやすい文章にしたいときは、必要最低限でいいのではないかと思っている。

使う場合は、「読む人が慣れている数字」を使うこと。
たとえば部屋の広さを形容するときに、昔は「四畳半」とか「六畳」という表現をしていた。昔の日本の家は和室が多くて、畳の数で言うと誰にでもわかりやすかったのだ。
今はどの家でも和室は少なくなってしまい、それが通じなくなっている。
ではその代わりに何を使うかというと、「㎡(平米)」ぐらいしかないのだが、正直あまりわかりやすくはない。
そこで「机一つとベッドを置くだけでもういっぱい」(部屋が狭いことを表現するとき)とか、「大型トラックが3台ぐらい入りそうな」(ガレージが広いことを表現するとき)など、数字ではなく読者が知っていそうなモノに置き換えて描写したりする。
テレビでよく耳にする、「東京ドーム○個分」という表現も、視聴者にわかりやすくするための工夫。ウィキペディアによると1個で4.7haらしい。「サッカー場○個分」という言い方もあるが、サッカー場は実は場所により大きさがまちまちのようで、それだとちょっと使いにくい。
この東京ドームは名古屋に行くと「名古屋ドーム○個分」、北海道に行くと「札幌ドーム○個分」に代わる。要は聞き手に親しみがあって、瞬間的にイメージが湧くことが大事なのだ。

筆者が思うに、人間が直感的にイメージできる数は一桁までではないかと思う。
筆者がアルバイトしていた頃、バイト仲間にゴリラみたいな顔の学生がいた。バイト先の社長はそいつを捕まえては、「おまえ、どうやって数を数えてるんだ。『1、2、3、4、いっぱい、いっぱい、いっぱい』じゃないのか?」などとからかって喜んでいたものだった。
当時は「何言ってんだかなー、社長」と思っていたのだが、今振り返ると、「人間みんな、実はそんなもんじゃないか」という気がする。
筆者が見るに、文章の中で10以上の数を使うとき、その目的の8割方は「『いっぱい、いっぱい』と強調すること」である。
「会場には前夜から20人以上が並び」
「展示品の数はこの品目だけで150種にもなり」
「この疾患による死亡者は年間4000人にも達し」
とか、もっともらしく書かれてはいるが、言いたいことはどれも「いっぱい、いっぱい」で同じ。
「東京ドーム○個分」というときもそうだ。「○個」の○には常に2以上の数字が入ってくるが、それが2であろうと3であろうと気にする必要はない。なぜならこの表現が使われているときは例外なく「おっきい、おっきい」という意味だからである。
読者には「東京ドームは大きい」というイメージがある。その大きい東京ドームが何個も並んだぐらいの大きさがあるのだから、「とっても大きい」というのが、この表現の趣旨なのである。

●切りのいい数字でインパクトを出す

「10以上の数字は『たくさん』または『大きい』を意味する」ということは、逆に文章表現法としては、「『たくさん』『大きい』を強調したいときは、10以上の数字を使えばよい」ということになる。
以前、若手国会議員の先生たちが、時の総理大臣に『日本政治を根本から改革する』的な政策提言をするというので、筆者がライティングのお手伝いをしたことがある。
政治家も古株になると、子飼いの官僚や新聞記者をうまく使ってライティングをやらせてしまうらしいのだが、議員さんも新人のうちはまだコネも少なくて、筆者のようなフリーのライターにお鉢が回ってきたのだろう。
このときの総理大臣は「おれはA4一枚以上の文書は読まん」と宣言していた方だったので、手渡す政策提言も必然的に「1政策1キャッチフレーズ」になってしまった。
そのとき筆者が「インパクト出すのにいいですよ」と先生方にお勧めしたのが、「切りのいい数字を入れること」だった。
たとえば「○○○の岩盤規制改革で、100万人の新規雇用創出!」とか、「○○予算の新規計上で保育所待機児童0達成!」とか「○○空港の国際化でインバウンド3000万人越えへ!」とか。数字が入ると、勢いがあって勇ましい感じが出る。
これには先生方も、「なんかそれらしくなった」とご満足の様子であった。

こういうとき同じような数字でも「98万」などと言うよりは、すっぱり「100万」のほうがインパクトが強い。なぜなら、読む人が覚えやすいからだ。なので、細かなところは適当にまるめてしまうようにする。
え、「数字は正確でなければいけない。そうでなければ、わざわざ数字を使う意味はない」だって?
ごもっとも。
でも実際は細かな数字の違いにこだわる必然性はない。ここでいう「100万人」「3000万人」というのは「いっぱい、いっぱい」ということであって、数字そのものに大きな意味はないのだから。
なおこうしたケースでの「0」は逆に、「少ない、少ない」を意味している。ゼロを使うときはだいたいそっちである。
この場合も「待機児童を全国で15人まで減らす」などと細かいことを言うより、すっぱり「0!」というほうがわかりやすくて、インパクトも強い。
そう、「待機児童0」はその当時から言われていた政策キャッチコピーだった。残念ながら、いまだに達成できていないようだが。

●細かな描写は、ほどほどに

これも作文指導の先生には叱られそうだが、数字と同様に具体的描写も、あまり細かすぎるのもどうかと思う。
子どもの作文指導ならもとが大ざっぱだから「なるべく丁寧にね」でいいのだろうが、読者も概して大ざっぱなので、描写があまり細かすぎると読むのが嫌になってしまう。
特に文章のメインテーマ以外は描写を簡単にしたほうがよい
細かな描写は、描写する対象に書き手が注意を惹かれたことを示している。それ以外の対象との描写量に差をつけることで、文章にメリハリがつく。
たとえば男子高生と女子高生が合同ハイキングをしました、という文章で(筆者はそんなうらやましい経験は一度もないが)、書き手の男子高生が集まった女子高生の中の一人について、
「四人の一人の○○子さんは、長い髪をまっすぐに垂らした色白の子で、腕も足もびっくりするほど細く、『あんな華奢な体で、山登りなんかできるのかな』と思うほどでした。でも彼女はとても快活で……」
などと延々と描写していたら、
「あ、そう。要は惚れたのね」
とすぐわかる。
この場合、残り三人の女子についての詳細な描写は必要ない。書き手の男子高生にとって「もはやいないも同然」のはずの対象についてまで細かく語られたら、焦点がぼけてしまうし、読者は「話が長いよ」と鼻に皺(しわ)を寄せてしまうだろう。
読者にとって、必然性もないのに延々と続く描写を読み続けるのは苦痛でしかない。なので何かについて具体的な描写をするのは、そうする必然性があるときだけにしよう。

細かな描写が書き手のイメージを損なうこともある。
食レポを丁寧に書いたら、「まめな人だな」「味にうるさそうだな」と読み手は思う。自分にそういうイメージを持ってほしいなら細かく書けばいいが、「男性的で大ざっぱ」というイメージを持ってほしいときには、やめたほうがいい。
そんなのよりかは、
「ほらよ」
「おー、んめえ!」
「だろ」
というように簡略化したほうが――誰の真似してるかわかるよね――「おー、かっけー!」となる確率が高いのである。

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